本日は「精神疾患が甘えではない理由」を解説します。
イジメはいじめられた側に問題があるわけではない、いじめた側に問題があると言ったりします。
それと同じで、精神疾患というのも個人の問題ではありません。
社会的に作り出された問題でもあります。
今回はそのことをお話しします。
どうしてこの話をしようと思ったかというと、先日、社会学者の方とお話しする機会がありました。
ニコニコ生放送で動画を撮ったのですが、その時に話した内容をYouTubeでもお話ししたいと思います。
コンテンツ
健康-不運-病気
いつも僕が使っている図です。
「健康」な人と「病気」の人とあったら、健康な人が急に病気になるわけではありません。
多くは一回「不運」や「不幸」という状況を経て、ストレスがたまって病気を発症する、というのが精神科でよく見られる図です。
図というか精神科とはそういうものです。
精神疾患は基本的には「遺伝子+ストレス」の影響で起きます。
うつ病にしても統合失調症にしても躁うつ病にしても、神経症と呼ばれるものだったり不安障害、パーソナリティ障害、基本的には遺伝子+ストレスで発症すると言われています。
もちろんこの「不運」を経ない病気というものもあります。
例えば甲状腺機能低下症、脳炎による意識障害や精神障害、最近だとコロナ後遺症のうつなどは、「不運」を経ずに一気に身体の調子が悪くなって脳の不調を起こすので、「健康」から「病気」へ直接移行します。
ですが、多くの精神疾患というのは一度ストレスフルな状況を経て病気の発症にいたることが多いです。
精神科医というのは病気の診断をして薬によって症状を取り除いていくのですが、症状を薬で押さえ込んでも「不運」な状況に戻るだけなのです。
またすぐ再発するということがあります。
ではこの「不運」な状況にいる人たちが社会の中に戻っていくにはどうしたら良いのかというと、精神療法、福祉、共同体の持つ社会の責任なのかなと思います。
よく「悩みを解決する方法」「幸せになる方法」「自己啓発本」など色々なものがありますし、色々な教えがあるのですが、僕らが見ていると、世の中で書かれている本は「健康」な人が充実するため、「リア充」に行くための道を説いているように見えます。
人間は生きている限り悩みがあるのは当然で、悩みを考えるために脳ミソがあります。
意識は問題を解決するために、生命の進化の過程で生まれてきた産物ですよね。
だから悩みを考え続けるのが脳ミソの仕事です。
悩みがなくなることはありません。
ただ、健康的な社会の中で起きる悩みと不運な状況にいるときの悩みの解決方法は違います。
それが同じように語られてしまっているのが現代の問題であり、精神科医がリアルな不幸を解説しないせいなのかな、という気もします。
社会の許容度が狭まっている
現代はどういう時代なのかというと、基本的には昭和の時代と比べて、共同体(社会)の許容度が狭まっています。
昔だったら許されたミスが許されなくなってきている、昔だったら新入社員のときにもっとゆっくり成長することが許容されていたのが、最近だと1年目や2年目の時点で仕事の成果を求められるようになった、ということは珍しくありません。
昔は父親が働きに行けば一家を養えていたものが、養えなくなっている。
専業主婦ができなくなって共働きをしなければならなくなっている。
そういう形で社会全体の許容度、いわゆる「健康と呼ばれるものの許容度がどんどん狭まっている感じはあるかなと思います。
その中で、この人たちは生活しにくいよ、とわかってきたのは発達障害です。
発達障害の人というのは、もっとスピード感がない時代であればミスなどは許されていた、大目に見られていましたが、今はガチガチに管理されて許されなくなっています。
許されなくなってきているので、学校では小中高と宿題を忘れても怒られなかったし、伸び伸びできていたのが、社会に出た途端、急にダメと言われて慌てて精神科に駆け込むということがよく起きています。
それが大人の発達障害といわれています。
大人の発達障害だけれども、あなたは学校では問題がなかったからグレーゾーンだね、と言われて悩んでいる。その結果、二次障害としてうつになって困ってしまいる人がたくさんいるということが現代的なよくあるストーリーです。
とにかく許容度が狭まっている一方で格差は拡大しているので、充実している人、お金持ちの割合も広がっています。
中間が減っているということです。
それは今起きている人類の大きな流れなのだろうと思います。
こういう状況だとやはり、不運な状況にある人が増えていくことなのかなと思います。
許容度が減っているのはなぜか
こういう共同体の許容度が減っているのはなぜかということを僕的に考えると、資本主義と、人類の抱える情報が拡大しているということで起きているのかなと思います。
「資本主義」はわかりますよね。お金儲けということです。
お金儲けがどんどん激しくなっていくと、段々勝ち組と負け組が出てきます。
同じルールで戦っていけば勝つ人はどんどん勝てるようになるし、負ける人はどんどん負けるようになります。大富豪と一緒なので。
基本的には税でお金持ちからお金持ちでない人にお金を移動させて平等にしないと、格差は開いて行きます。
しかし政治家もお金持ち側なのでどんどん格差は開いて行きます。
戦争などが起きて一度ぐちゃぐちゃにしない限り広がっていくというのは、そういうものです。
「情報の拡大」は何かというと、もっと分かりやすいことを言うと、紙や本がない時代、原始時代なら村の長老が色々なことを教えていました。
村の長老の頭の中に収まるくらい、人間の脳の中に抱えられるくらいの情報しかなかったのです。
ですが、脳の中に蓄えられる以上の情報を人類はどんどん獲得していきます。
例えば本を書く、石に文字で記録していく、歌を使って残していくなど、次の世代に残していきます。
石の形で残していく、手書きの本で残していく、活版印刷で大量に本を刷る、今はインターネットで無限の情報を蓄えられるようになっており、その情報量もどんどん増えていってAIが勝手に情報を作るようになってきています。どんどん広がっています。
専門分野というのもどんどん広がっています。
昔であれば、友だちのこと、生きるとは何か、食べ物はどうやって作るのか、どうやって幸せになるのかといった問題の情報しかありませんでした。
原始時代であれば神様って何だろうという世界だったのが、人間らしい原始的な知識ということについて深く知る人が減って、どんどんオタク化が進みました。
人類が抱えている情報が増えた上に把握もしなければいけないので、基本的な情報を知る割合が減って、オタク化、専門的な知識が増えているというのは、どんな患者さんと喋っていても思います。
基礎教養というものが減ってきており、互いに持っている共通のカルチャーが減っていき、逆に自分の好きなことについては詳しく知るようになってきたという感じです。
これが良いのか悪いのかというのは、色々な考え方があると思いますが、基本的には科学が進むにつれて仕方がないことなのかなという気はします。
人類全体がオタク化しているという感じです。
互いへの関心が薄れている
その結果、家族機能の低下、家族で一緒にテレビを観て感想を言うのではなくて、親子が正面を向いて会話するよりは、親子が並んで一緒に動画を見ている。
動画を見ていると思ったら横でスマホをいじったりして、会話というよりはボディタッチで肩を寄せるということはあっても、親子の会話が減っているということはあります。そうすると機能が低下します。
カップルもそうです。いちゃいちゃはする。
動物的な付き合いはあっても、お金の話は一緒にしない。
一緒に今後の将来はどうするのか、という会話は避けられます。
理性的な部分、言語化して自分の思いを伝え、相手もそういうことをして一緒にストーリーを積み上げていく、言語で何かを作っていくという作業は低下しています。
そういう機能が落ちていると思います。
みんながオタク化しているので、互いのことに関心がなくなってきています。
一緒の世界に住んでいる、僕たちは仲間なんだという気持ちが薄れてきています。
市民の役割を果たさない
同じ日本人なんだから頑張ろう、次の子どもたちのために何とかしよう、死後も自分のことが語り継がれるだろうから日本のために頑張ろう、という気持ちはどんどん減っています。
ある種、市民(国に暮らす普通の人たち)の果たすべき役割もやらなくなってきています。
精神科医であれば病気のことを説明する、こういうYouTube活動、お金のためでもなく、自分の業績のためでもなく、ただ誰かのためにやっていくという義務の活動をみんなやらなくなってきています。
それを讚えるカルチャーも減ってきています。
みんながオタク化していて、医者であれば社会貢献というよりも医者同士の中で評価し合える論文や点数で自分たちの満足感を満たす。
それは、医者だけではなくあらゆる専門家がそうです。
経営者であればお金の数字、いくら稼いだか。
社会にどういうインパクトを残したかではなく、いくら貯金があるか、どういうものを持っているか、そういうところでマウントを取り合うようになってしまい、市民義務を果たすことに関心が薄れています。
少子高齢化にも影響しています。
欲求不満に耐えられない
リセット癖、欲求不満に耐えられないと言いますが、自分たちが共同体にいる中で、ダメなヤツなんだ、弱ってるヤツなんだということが、自分で自分を受け入れられないんですね。
生き方には多様性があるし、共同体におんぶに抱っこでも良いのですが、それを拒否してしまうということがあるようです。
母親にあやしてもらってはいけないと思い、代わりにYouTubeを見て自分で自分をあやすようなところがあるなと思います。
自分で自分のことをやっているから良いじゃないか、という気もしますが、自分が苦しいということを母親に伝える努力を放棄しているという風にも見えます。
某ヤンキー系YouTuberで、昔からの友だちだから一緒に仕事をしたいということでYouTubeのチームに入れたのですが、誹謗中傷に耐えられなくてその一人が辞めてしまいます。
そこまではいいんです。
そこでヤンキーのボスが、オレたちは仲間だし友だちじゃないか、一生懸命働いてくれなくても成果を出せなくても友だちだから、お前に合った仕事を見つけるからチームの中にいて欲しい、と言うのです。
でもその相手は、お前に迷惑をかけられないから、と切ってしまいます。
仕事の縁を切るだけで、本当の意味で友だちの関係を切るかどうかはわからないのですが、でも切ってしまいます。
これが今っぽいと僕は思います。
本当の意味で社会と切れてはいないけれども、フィクションというか例え話というか、ある種の例えなのですが、同じようなものが精神疾患の中に、精神科の臨床の中でも見られます。
ちゃんとやれていない、自分は社会の中で何もやれていないという思いが強くなってくると、すごく自分を責めるということがあります。
社会自体の許容度はどんどん狭まっていくし、社会の側から手を差し伸べても、いやいやオレはダメなんだと救いの手を切ってしまう。
それは、人間同士の繋がりを超えるスピードで社会が変化しているからなのかなと思ったりします。
こんなことをニコ生で話しました。
こういう社会学的な視点というのも、患者のみなさんに持ってもらいたいと思うので、今回こういう話をしました。
とにかく個人で不運な状況になったというよりは、何かしらのアクシデント、事故だったり生まれつきの機能劣性だったりパワハラだったり、何かわからない事故のようなものに遭ってはじかれた結果、どんどん健康に戻りにくくなっているということがよくあるなと思います。
今回は、共同体と精神疾患、そして精神疾患は甘えや個人の問題ではなく社会の問題である、というテーマで小難しいですがお話しました。
その他
2022.7.8