本日は「安倍元首相銃撃事件」について個人的な意見を述べさせていただこうと思います。
あらかじめお伝えしますが、僕個人としてはもともと自衛隊にいたということもあり、安倍元首相のことを尊敬しております。
日本政府のあり方、自民党のあり方については色々な側面があり、色々な「事実」もあると思うのですが、基本的に清濁合わせて賛成している立場です。尊敬もしております…、ということです。
事件について調べていくと色々な側面があるので色々話したくもなりますが、事実をしっかり確認できているわけではないのでお話ししません。
事件について一般的に語られている範囲、ニュースで出ている範囲、新聞で報道されている範囲の中から、精神科に関係することをお話ししようかなと思います。
あらかじめ申し上げますが、犯人に対して擁護をすることはありません。
◯精神科医YouTuberとしての責務
デリケートな問題なので、お話しするかどうかちょっと悩みました。
ただ、こういう注目される犯罪があったときには、精神医学や精神科医としての知識が社会に求められている時でもありますし、関連する話はしてみようかなと思います。
それが精神科医YouTuberとしての責務、社会的な市民義務なのかなと思ったので、このお話しをしようと思います。
コンテンツ
母親の破綻
事件の一部ですが本人は「母親が自己破産してしまった。
ある宗教団体に献金をしていた結果、自己破産をしてしまってそこから家庭環境がおかしくなり恨みを持つようになった」というような発言をしているようです。
母親に対する怒りもあるけれど、一方で母親の事情もわかる。
母親が自分を苦しめたけれど、母親を苦しめる発端となった宗教団体に対して怒りを向けたのかなと思う。しかし、信心もあるので、愛憎がある。
そこで関連があった政治家、本人の目から見たら「その宗教団体をうまく利用した政治家」というものに対して、怒りの矛先を変えていったのかなと思います。
それはお門違いじゃないかと皆さんは思われるかもしれないですが、精神科領域ではよくある話です。医師も恨みの対象になりやすいです。(放火事件もありました)
怒りを本来向けるべき相手に向けないというのは、投影や転移という言い方をして、無意識の作用なんだと説明することもあれば、単純に勘違いというか移り行くことはあるので、そういうふうに説明されることもあります。
こういう構造なのでしょう。とてもシンプルな感じです。
文字通り、犯人はとても単純な理解なのかもしれないな、と想像します。
望まない宗教
ただ、宗教がらみで、こういう痛々しさというのは珍しくありません。
本人が持っている痛さ、苦しみというのは精神科では珍しくなく、やはり家庭環境の問題、貧困の問題、共同体から切り離された痛みはよく見ます。
今回は違いますが、本人が望まない宗教を持つ痛々しさや苦しさは珍しくないですし、よくあるなと思いますね。
宗教二世の問題は、語ることが結構難しいんですよね。
例えば、宗教というのもしっかり入っている人たちだと、そこから外れるとコミュニティから抜け出してしまってすごく孤立したような感じがするのです。
僕にも似た経験があります。
自衛隊いると、そこを辞めた後はすごく心細いのです。
今まで四六時中一緒にいたし、同じ釜の飯を食った仲間であったし、給料よりも階級や組織の中の価値観にすごく染まっていた、踊らされていた時に、そういうものから外れると本当に孤立した感じがします。
給料が上がるとかボーナスが増えるよりも、勲章が付く方が嬉しいみたいな。
何で?という感じなんですが、そういう中に僕もいたので、宗教二世の人が望まない宗教のために家族と距離を取ったり縁を切ったりして、自分の人生を歩もうとするときの痛さや苦しみはよくわかります。
そこへの愛憎、うまく表せない気持ちというのはよくわかります。
母親や団体に対しては愛憎入り交じるので、「怒り」だけを別の誰かへ向けてしまったのかなという気もしなくはないです。
孤立・無敵の人
報道の当初は、この人は40歳で仕事もなかったので「無敵の人」みたいな言われ方もしていました。
この人は社会から見捨てられた、自分が死んでも誰も悲しまないからなりふり構わず誰かを傷つけてやりたいのだ、と無敵の人として報道されていた時もあるのですが、世の中に「無敵の人」は僕はいないと思います。
皆に名前があって、繋がりがある。
今は切れてしまったかもしれないけれど、繋がりがあって、やはり個人なんですよね。
無敵の人というか属性のない人たちではなく、生々しい個人だし、かけがえのない人だと僕は思っています。
よく臨床していても、「自分には価値がない」「意味がない」「特別なところは何もない」「社会にはいらない」と言う患者さんはいますし、「益田先生から見たら僕らなんて別に一人の患者でしかないんでしょう」と言う人もいるのですが、僕はそうは思っていません。
皆違いますし、それは綺麗事でも何でもなく、本当に違うし個別のものなのです。
臨床は同じことが二度起きない。同じ患者さんでも同じ臨床は絶対に起きないですから、個別のものとして扱わなければいけないと思います。
ただこの人から見ると、他の人たちが個別の人間ではなく、何か現象や概念に見えてしまったのかなという気はします。かけがえのなさ、がいまいち理解できないんだと思います。だから暴力をしてしまうんですよね。
それだけ追い詰められていたのかなという気もします。
環境や制度を見直す
どうしたらいいのかというと、単純な物の見方ではなく、複雑に考えていくことが大事です。
他責・自責という2つの概念ではなく、もっと複雑に今起きている現象は何なのかということを考えていかなければいけません。
偶然の問題、しがらみの問題、清濁併せ呑むことも必要だと僕は思っています。
恨みを持つ人たちや怒っている人たちは実際に臨床とつなげられるんですかとか、どうしたら良かったのでしょうかとTwitterのコメントでももらったのですが、ここまでいくと治療契約を結ぶというのは難しかったりします。
僕らがやるべきことは、環境や制度を見直す、ということです。
こういう機会だからこそ、制度は正しいのか、何か変えられるものはないのか、問題点を具体的に個別に検討していって、同じことが起きないような対策を立てるということは重要なのではないかと思います。
今後も注目される犯罪とそれらに関連する知識を伝えていこうと思います。
精神科には倫理的な問題がつきまといます。
よくわからないものに対して、精神科医がこれはこうであると言うべきではありませんし、ましてや診断をすべきではありません。
直接診たことのない人の診断はすべきではありませんし、直接診たとしてもプライバシーの問題があるからYouTubeで言うべきではありません。
僕は診断やアセスメント評価をしているわけではございません。
偏見を助長するつもりもありません。
ただ、沈黙もすべきではないと思ったので、こういう形で事件について所感を述べました。
今回は銃撃事件について、自分なりの意見、考え、思ったことを述べました。
その他
2022.7.14