本日は「社会的つながりは無視してよいか」というテーマでお話ししようと思います。
患者さんたちは、社会に傷つけられて社会から排除されてしまっている人たちが多いです。
社会的つながりは大事だと言われると苦しいわけです。
僕から「でも、社会とつながりを持つことは大事だよね」「責任を感じることは重要だよね」と言われると、とても苦しいわけですね。
だからそういうことを無視していい、他人を無視していい、自分の安定を守る、責任を持たずに自分のことだけに集中すればいいんだと言ってもらいたい人も多いと思うんですよね。
だけど、それだとやっぱりうまくいかないことも多いので、今回はつながりは無視してもいいんだけども、無視しすぎはよくないよ。
言い換えるのであれば、社会的つながりは無視していいんだけども、命のつながりは無視しちゃいけないということなのかなと思います。
そういう話をしようと思います。
森の中、森の外
まず、僕らは健康というか、社会がありますよね。
よく森の中、森の外と僕は例えるんですけれど、多くの人は森の中で中心を目指すんですよ。
中心にはいっぱい果物がなってるので、より多くの果物を欲しがるんですね。
みんな内側に目が向いている。
だけど、不運が重なるんですね。うまくいかない。
例えば、遺伝的な問題だったり、家族との問題だったり、たまたまパワハラ上司と巡り合ってしまったり、そうするとこの社会から一回外れてしまうんですよね。
不運のゾーンに行ってしまいます。
外側にはじき出されちゃう、生存競争から外側にはじかれてしまう。
ここの不運の状況が重なると、例えば、仕事でうまくいかなかった+家族関係もうまくいかなかったとか、そこから犯罪に遭ってしまったとか、恋人からDVを受けてしまった。恋人から犯罪を受けてしまったとかがあるととうとう病気になってしまうんですね。
一個一個の不幸は、100人に一人とか1000人に一人とか50人に一人の不幸なんですよね。
だけどそれが重なるんですよね。重なると病気になってしまう。
これがなかなか皆に理解してもらえないんですよ。
「いや、そんなことある?」みたいな感じに思われちゃうんですよね。
例えば、サイコロの目が6が連続で10回出ることはないと思うじゃないですか。
そんなこと起きないでしょうと皆思うんだけど、起きるんですよ。1億2000万人もいると。日本人の中では。
精神科は本当に1000人に一人とか1万人に一人みたいな人が集まる場所なんですよね。
宝くじに当たる人は絶対いるんですよ。でも周りにはいないですよね。
だからいないものだと思ってしまうし、都市伝説だと思っているけど、そんなことはない。隠してたりもしますからね。
そういう形でサイコロの目が続くように、他の人は理解できないんだけれどもいるという感じです。
だから極めて少数なんですよ。少数なんだけど一定数いるという感じです。
病気が良くなっても、また不運の状態へ戻るだけなんですよね。
うつになりました、休養しました、薬を使いましたと言っても、うつが良くなっても不運に戻るだけなんですよ。
あるきっかけでまた不幸がつながると病気へ戻っちゃうんですよね。
うまくいっていない時はうまくいかなくなりやすいんですよね。だから一回崩れちゃうとなかなか復帰しにくいんですよ。
成功は成功を呼ぶんですよね。
成功者が周りに集まりやすかったり、お金が集まりやすかったりとか。次のチャンスも巡って来やすい。
一回落ち込むとですね。不幸が不幸を呼んでしまうということが起きちゃうわけですね。だから、また病気に戻っちゃうみたいな感じですね。
でも、森の中の人から見ると「こんなことめったに起きないでしょう」とか言われるし、「不運と病気を往復してるのはお前の努力が足りないんだ」と見えてしまうんですよね。
「俺たちだって頑張っているじゃないか」「お前らは頑張ってないんだから」と思われてしまう。
「いや、自己責任でしょ」と思われてしまうんだけども、全然違うんですよね。
やっぱり森の中の人たちは運がいいということに気付いてなかったりすることがありますね。
自分たちが内側に行こうとする時に、蹴飛ばしているんですよね、反動で。
それがわかっていないことがよくあります。
病気から不運に戻って頑張って森の中へ戻ることもあるし、やっぱり森の外と言っているんですけど、福祉の力で生きていくこともあるわけですよね。
皆が皆戻れるわけじゃないわけで、そういう場合は福祉の力を頼って外側で生きていくこともいいですということです。
そういう話を僕はよくしていました。
命としての繋がり
ただ、これは社会的つながりを切っていいということでもないんですよね。
社会的つながりを切ってもいいんだけど、命としての繋がりは無視してはいけないんじゃないかなと思います。
もうちょっと視野を広げると、僕らは社会の中に住んでいるんだけども、もっと広く見ると人間社会の中で生きているわけですし、もっと広く見ると地球というところで暮らしているわけですよね。
今、僕らはすごく狭い村に暮らしているような形で、外側に点々とあるんですよね。
だけど、地球のコアなところでは、命の何かがあるんじゃないかなと僕は思っていて、根は皆つながってるんですよね。
常識的な価値観とか、皆が持っている資本主義的な価値観とか能力主義、自己責任論とかそういう文脈で繋がる必要は僕は究極的にないと思うんですよ。
常識を疑っていいと思うんですね。
だけど、命のつながりというかですね、そういうのは無視しちゃいけないし、命のつながりの中で僕らは障害がある人もない人もある種平等であり、ある種つながっていて、ある種助け合っているんですよね。
ここの部分が想像できると治療が進むし、自分を責めないと思います。
これは現代人じゃなければ理解しやすいんですよね。
今でこそ僕らは神様というものを信じられなくなってしまいましたが、昔の人は神様というものを信じていたので、常識とかその当時の風土とかではなく、霊的な繋がりっていうものを僕らはどこか感じ取ることができたんですよね。
昔の哲学書とか思想書とか、今日の芸術家であり精神科医であり一流の人たちは、やはりこの霊的な繋がりやコアのところにある命のつながりを確認しているし、魂の修行によってそこに辿り着くことも言っていたりします。
こういうことを言うと、すごく宗教的な感じがしてなんかうさんくさいことを言っているように見えますけど、そうじゃなくて、マインドフルネスを鍛えていくと、自分の中の繋がりというかメタ認知を極めていくと、決して僕らが単純な能力主義とか自己責任論では説明がつかない大きなものに包まれているというか、大きなものと繋がっている感じはわかってくるんですね。
しかも、論理的にも証明できますしね。
信じる力を大切にするとか、お金ではない貢献というのがありますから、そういう意味では皆つながっているので、ここをわかってもらえるといいんじゃないかなと思います。
外にいるからといって社会のお荷物というわけではなく、霊的な意味とか命とか、目に見えない力ではすごくつながっている。
彼らの存在が世の中を動かしていたりしますよね。
歴史を見ていてもそうだし、一見役に立ってないものが後々役に立つこともあるし、そういうのもわかっているから多様であるんですよね。
多様の中にたまたま僕らは森の中いるかもしれないし、不運にいるかもしれないんだけれど、でもそこで卑屈になっていくのではなくて、もうちょっとメタに見てもらって、俯瞰的に見てもらって、僕らはたまたまそこにいるんだなということを理解してもらえると、また見え方は変わるんじゃないかなと思います。
だから働いていない人間なんだけど価値はあるのかとか、生きている意味はあるのかという究極の問いというのは、この水準で考えるとわからないんだけれども、命のつながりの水準だと明らかという感じはします。
今回は、社会的つながりを無視して良いのか、命のつながりは大事なんじゃないか、そういう話をしました。
人間関係
2023.9.12