今日は『死にたい』というワードをインターネットでやるのはNGだよ、という話しをしたいのですが、具体的にそれはどういうことなのか、どういう言葉で置き換えたらいいのか、などをお話しします。
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「死にたい」と言うと助けてもらいにくい
「死にたい」と言いたくなったら、別の言葉で言い換えるというのがとても大事です。
「もう死にたいんです」と言うとみんな困ってしまうんです。
助けてあげたいなと思っても助けられなくなってしまうんです。
死にたいと言っている人と関わったときに、もし事故があったら自分は責任取れないな、もう精神科医に任すしかないな、となってしまうんです。
看護師さんも「じゃあもう入院させるしかない」となってしまうし、でも実際に入院先はなかったり、入院してもただ薬を出されるだけだったりすることが多いことになるかなと思いますし、しっかり話を聞いてくれるわけじゃないです。
入院中にはしっかり話を聞かないんです、基本的には。
なぜかというと、病院がある意味居心地が良過ぎると出られなくなってしまう。
場合によっては入院が楽だったということで、自分から入院したいなとわざと薬を飲み過ぎちゃう、そういうこともあったりするんです。
入院環境は居心地が良過ぎないというのも結構大事だったりするので、そういう風に意識されていることも多いです。
死にたいというと助けてもらいにくいので、「死にたい」以外の言葉を使うことで、色々な人と話をしたり、助けてもらうのが良いんじゃないかなと思います。
別の言葉で置き換える
別の言葉で言い換えるというのはどういう言葉が良いかというと、例えば「絶望した」などです。
「自分に絶望しました」
「相手に絶望してしまった」
「社会に絶望してしまった」
「もう取り返しがつかないような気がするんです」
「もう何か詰んでる気がするんですよね」
「もう誰からも愛されないんじゃないか」
そういう言葉で置き換えてみると良いんじゃないかなと思います。
辛い気持ちというのは吐き出してもOKだけど、NGワード、死にたい、もう自殺します、そういうものには気をつけてくださいということです。
なぜ複雑な言葉で説明しなければいけないのか
そもそもなぜ自分の気持ちを「死にたい」ではなく、複雑な言葉で説明しなければいけないのか、という話をします。
シンプルな言葉は、なぜ使ってはいけないのかということなんです。
これは水路を想像してもらえばいいのですが、単純な水路というのは勢いが強いんです。
滝から水がブワーッと流れるような感じ、ダムから水がパーッと漏れるような感じで、勢いがすごいんです。
だけど複雑な回路というのは、入れてもあっちから出たり、こっちから出たりぐちゃぐちゃとやって、勢いが分散して緩められるんです。
水が蛇口から出たり止まったりしても、上手く勢いを壊す、殺すことができるんです。
人間の感情というのは、学習によって成立していくんです。
言葉が増えれば増えるほど感情というのは複雑になっていくし、自分の気持ちを説明できる言葉が増えれば増えるほど、事故は起きにくいということがわかっているんです。
だから国語能力はとても大事で、会話する能力もとても大事です。
精神科では色々な言葉を覚えてもらう、色々な言葉を使って自分の気持ちを表現してもらう、自分の素直な気持ちを表現してもらう、ということをやるんです。
価値観についての仮説
いつもの話を最後にしようかなと思います。
精神科の中での治療というのは、自分の気持ちをきちんと表現する、正しく世界を認知する、ということだったりするんです。
人間の脳というのは脳の配線です。
僕らが見ている現実というのは、本当の現実を見てるんじゃなくて、脳内に再加工された世界を見てるんです。
自分の思い込みの世界に生きているんです。
なぜわかるかというと、だまし絵です。
だまし絵なんて最初は何かよく分からない普通の森かなと思っても、これはウサギだよとヒントをもらったら見え方がガラッと変わるわけです。
そこからわかるように、人間というのは自分の記憶や知識に基づいて何かを見ているんです。
現実をあるがまま見ているというよりは、知識や経験などで補正されたものを見ているんです。
もうちょっと細かく言うと、人間というのは脳で考えているんです。
脳とは何かというと遺伝子です。
遺伝子という設計図をもとに生物学的な機械、タンパク質で作られた機械を作ってるんです。
この機械がハードウェアで、そこにOSというかプログラミングとして記憶、今までの経験や知識というのがインストールされて、どんなことが世界で起きているのかを認識しているということになります。
あとは身体からの情報です。
心臓がどれぐらいなっているのか、体調などによって、それが脳に反映されて見える景色が変わります。
例えば、体調が悪いときは見ている世界も暗くなります。
心臓がドキドキしているときには、吊り橋効果と言って何か不安になるんです。ドキドキしているだけで。
そのドキドキが、恋愛感情かなと錯覚することもあったりします。
不安だとドキドキするし、ドキドキしているから不安だという悪循環というかループを生んだりすることもあるんです。
それがひどくなったものがパニック障害や不安障害だったりします。
現実と脳内の世界がズレているときに、瞬時に人間は解決に向かう行動を取ったり、認知を修正したり、回避をしたりするんです。
この荷物、重いかな、軽いかな、と思って持って重かったら急に認知の修正をしてグッと力みます。
力むということは解決に向かう行動なわけじゃないですか。
でも、重いんだと思って手を離したりとか、危ないんだと思って回避することもあるかもしれません。
ズレに関して、ストレスや不安、怒りなどを感じて、人間は認知を修正して行動をフィードバックするということをやっているんです。
これは肉体や筋肉の世界でも起きていることなので、恐らく自分たちの心や感情にも同じことが起きているんじゃないかなと今仮説として考えられているんです。
精神科の臨床では、基本的には認知の歪みのない正しい世界認識をしていこう、ということになります。
うつ病で、うつが長い場合は悲観的に世界を捉えてたりするので、悲観的に考えるのをやめよう、虐待を受けていたりすると白黒思考になったり、発達障害などがあって、善なのか悪なのかなど、単純に物事を理解しようとし過ぎるので、それを訂正して「世の中にはグレーもあるんだよ」「良い/悪いだけで判断できないんだよ」と知ることで柔軟に対応できる、そういうことをやるんです。
ただ、そもそもこれをやる前に、ある種の楽観性がないといけないんです。
世界はダメだという風にそもそも絶望しきっている場合は「いやいや、人って信用できるところもあるよね」「良い体験もあったよね」という常識的な最低限の楽観性というのはないといけないんです。
患者さんによっては医者も看護師さんも全員を許せない、信じられない、となっている人もいるので、その場合は、いくら正しい世界認識を目指そうと言ってカウンセリングしていっても、筋を違えてしまう、間違った方に行ってしまうので、正しい常識的な楽観性を身につける必要があります。
もう一個言うと、正しく現実を理解したところで詰んでるじゃないか、という状況もあると思うんです。
すごく絶望的な状況というのもあるんです。
例えば、虐待を受けている子どもたちは、親を憎んでもいいんだ、ということがわかったときに、でも親のもとでしか生活できないということもあったりするんです。
人間は、認知を変える、正しい行動をすれば幸福になれるかというと、必ずしもそういうわけじゃない状況もあります。
そういうときに僕らはどうすべきなのか、という状況はあります。
私の病気は治らないんじゃないか、治らないということはある意味差別され続けるんじゃないか、精神疾患というのは差別の対象じゃないか、差別されないかもしれないけれども本当は働けないんじゃないか、そういう状況もあり得ると思うんです。
でもそうなったときには、今度は人間の尊厳というものをそもそも理解する必要があるんじゃないかなと思います。
病気の人だから劣っている、価値がない、そういうことは全然ないんです。
それはきれい事ではなくて、きちんと人間の尊厳というものを理解できていれば、そういうことは起きないんです。
脳の仕組みがメインになるんですけれども、尊厳などそういうことを理解していくのもとても大事だなと思います。
「死ぬ」とかそういう単純な言葉で単純に世界を認識するのではなくて、人生とか世界とか社会はもっと複雑なものです。
そういう中で絶望的な状況であっても、人間には尊厳があり価値がありますから、そういうことを学んでいってもらえればなと思います。
「なぜ死ぬと言ってはいけないのか」ということをメインに今日はお話ししました。
その他
2022.12.7