本日は「多様性と不寛容」というテーマでお話しします。
なんだか難しそうなテーマですが、簡単に説明すると、人間というのは色々な種類の人がいる。
色々な人がいた上で、自分とは反対側の人のことに対して、許すことができない、あまり受け入れることができないんです。理解することも難しいんです。
そこら辺のことをお話しします。
往々にして精神疾患の方というのは、メジャーな存在ではないですよね。
マイノリティ側なので、相手がこちらを理解してくれることも少ない感じはします。
もちろん、こちらが相手のことを理解することも少ないんですけれども。
もっと理解してほしい、もっとこうしてほしいという思いにとらわれてしまう。
親子関係でも、友人関係でも、恋人関係でもそうなんですが、なかなかその思いは叶いにくいんです。
そこら辺をみんなと共有できたらなと思ってこのテーマを選びました。
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相手の立場で考える?
結論、色々な人がいるし、多様性について多くの人は理解は難しいんだなと、そういうものなんだなと思ってもらえれば、それまでなんです。でもなかなか難しいですよね。
なぜかというと、「相手の立場で考える」というのがとても難しいのです。
相手の立場で考えるというのは、一見シンプルでよく言われる話です。
子どもの頃も相手の立場になって考えなさいと散々言われます。
言われるけれどこれはなかなかできないです。言ってる本人だってできてなかったりしますから。
僕は散々言われてきました。
お前はなんで人の立場に立って考えられないんだ、益田は人の立場で考えられないから意地悪なことを言うんだ、冷たいとか。
正論だけどなんでそのタイミングで言うの、と言われてきました。
僕の中の発達障害傾向というか、神経発達症傾向があるからそうと言えばそうなんだけれども、僕以外の人もそうだなと思います。
僕は結構特殊な環境で育ったというか、特殊な環境にいるので、なかなか同じように考えにくいとも思います。
なぜかというと、まず自分がパッと考えたときに、自分で考えて相手の立場に立ってないというのが一つあるんですけれども、自分が相手の立場だとこうだな、というところがそもそもズレてるパターンが結構多いです。
僕だったらこういう風に言ってほしいな、ということを地でやって、喜ばれることもあれば、喜ばれないこともあります。
だからもう一段階上げて考えなければいけなくて、相手の性格、相手のキャラクターを吟味して、その上で相手の立場だったらどうなのか、ということを考えてあげないといけないんです。
でも「相手のことを理解した上で、相手の立場で考える」のは結構難しくて、それはなぜかというと、相手を完璧に自分の中でトレースするのは不可能だからです。
相手はどういう思考回路をとるのかというと、二つの要素で成り立つんです。
元々持っている脳の特性、遺伝的な要素と、その人の知識というか生い立ちというか、学習されている内容、記憶や学習も考慮して、相手は次の考えや感情、次の判断を決定します。
相手の脳の特性と生い立ちを同時に考えながらシミュレーションしなければいけないので結構難しいです。
これはなかなかできないですね。
脳に特性があるということを考えない人が多いし、考えたとしても相手の生い立ち、記憶、その背景まで考えようとすると、それは人間の脳の演算処理能力では追いつかないですから。
なかなかこの情報も知らなかったりしますから、難しいなと思います。
こういう話をすると「わかった」という人もいれば、「何言ってんだ」と思われることもあります。
ここら辺は天動説 vs 地動説みたいな感じで、一見シンプルなんだけれども、ここをガラッと変えるのは難しかったりします。
人間というのは生まれながらにして脳の特性も感じ方も違うので、それを吟味して相手の行動、考え、気持ちを配慮しなきゃいけませんよ、というパラダイムシフトと、記憶や学習、その人が持っている記憶、生い立ち、色々な社会的な背景や文化的な要素を加味しないといけない。その人の価値観では正しいかもしれないけれども他の価値観では違うよ、こういう社会学的な背景、構造主義的な概念も理解しなきゃいけないので、ここら辺の二つのパラダイムシフト、後は不完全性定理など色々あるんですけれど、そこら辺を加味して俯瞰的にメタ認知を使いながら、相手のキャラクターというか、相手の人物像をシミュレーションしてやることは結構難しかったりします。
でも本当にやってないのかというと、難しいのですが、やったりしていることもあるんです。
それは例えばメンターです。
「もし自分のお師匠さんだったら、この時こういうことをするんじゃないかな」
「もしあの人だったらこういうことをするんじゃないかな」
など。
小説や漫画、映画で、作者の人がキャラクターが勝手に動き出すとか言うじゃないですか?
そういうものがあると、相手の立場で考えやすかったりします。
だけど、そこまでの多くのキャラクターというか人物を心の中で保つことは難しく、ましてや初対面の人、あまり親しくない人、自分が好きじゃない人、相性が悪い人のことだと尚更シミュレーションしたくないでしょうから、したくないというか、しにくいと思いますから、まあ、そうかなと思います。
これが多様性であり、不寛容である理由なのかなと思います。
ASD傾向がある人たち
これは大雑把な話ですが、実際、精神医学にこれを落とし込んだ場合、例えば発達障害傾向やHSP(医学用語ではありませんが、わかりやすいので使います)、これもあるんです。
ASD傾向がある人たちというのは、自分が相手の立場だったらこうだというのをトレースしにくいんです、感じ方が違うので。
ただ、これはある程度スペクトラム的な要素なので、100%できないわけじゃないけれども、結構質が違うな、という感じです。
空気が読めない、感覚過敏があると言いつつも、一般の人でも大なり小なりそういった特性があるので、想像がしやすいところもあったりする。
ASDの人も空気が全く読めないこともないので、相手のことを想像しやすい部分もあるんだけど、やはり程度が違うと理解しにくかったりします。
HSPもそうです。
すごく完璧主義だったり、すごく色々なものが気になるというのもあるんだけれども、でも大なり小なり人間というのは完璧主義的なもの、相手のことが気になる、他人の目が気になる要素というのはあるので、そこの部分を拡大解釈していくと相手のことが分かるし、かといって程度が違うのでわかりにくいということがあります。
僕らがサッカーをやっても、プロのサッカー選手の気持ちがわかる部分もあれば、わからない部分もあるような、そんな感じです。
スペクトラムというとよくわからないと言われるんですけれども、スペクトラムとは何かというと、連続性があるということなんです。
背の順でも成績表でもいいんですけれども、スコアが低い人から高い順にずっと並べたときに、真ん中というのはドングリの背比べみたいなところがあるけれど、端にいる人たちというのは結構目立つんです。
変わったように見えるので障害という言われ方をします。
カテゴリーで考える
そういう人間の能力、性格、過敏さ、不安の感じやすさというパラメーターは、様々あるということが何となく分かってきています。
脳科学的にはわかってきている。
ただ精神医学というのは、パラメータとしてこの人はこのパラメータが何点、何点と考えるというよりは、カテゴリーで考えるので、そこがちょっと違うなと思います。
臨床している中では、この人はこうなのかな、と色々なパラメーター的なものを考えたりするんだけれども、教科書的には、ガイドライン的にはそういうパラメーターに応じた治療ガイドラインが組まれているのではなくて、カテゴリーで考えたりしています。
様々なパラメーターがあるんですけれど、人間の面白いところは、短所を他の能力で補うことがあるんです。
例えば目が見えない人は、代わりに鼻や耳が良かったりするとか聞いたことありますよね。
そういう感じで、人間の能力というのはどこかで短所を他の能力で補う、できないことを他の能力で補うものが身に付いていて、そこら辺が神経の面白さというか、脳神経の不思議さなんです。
発達障害の人も相手の立場で考えるのが苦手でも、直感的に、感情、そういうエモーショナルなところで理解しなくても、理屈で理解したり、別のルートを使って相手のことを考えることができたりするんです。
とは言っても、やはり同じようで違う、違うようで同じ、というのが精神科のものであるし、逆に相手の立場で考えるのは難しくて、相手も自分と同じようなものだと思うから、甘えていると思ったり、不寛容になったりしてしまうということがあるんです。
でもまあ、その人だとそうだよね、何とか症の人はこうだよね、あなたはこういう診断だからこうだよね、という思考回路は結構役に立ちます。
カテゴリーで考えるというのは、自分を束縛されるというか、固定化されるようで気持ち悪い気がするかもしれないし、相手のことをカテゴリー分けして考えるというのは、相手の人格を否定してしまうような感じがするかもしれません。
でもすごく細かいパラメーターで考えようとすると、やはり人間の認知というか能力では考えにくかったりするので、ある程度カテゴリーのものを利用しつつ、相手のことを上手くトレースするというのは結構重要なんじゃないかなと思います。
ややこしい話をしましたけど、そのうちもうちょっと説明が上手くなると思います。
今日は、多様性と不寛容というテーマで話してみました。
人間関係
2023.1.5