本日は「自殺はなぜ止めなきゃいけないのか、何で死んじゃいけないのか」というテーマでお話しします。
よくあるテーマです。
自殺はなぜいけないのか、ということです。
精神科医はおはこですとは言わないけれども、よくそういう話になるので、こういう解説をしています。
コンテンツ
うつ状態、トラウマなど
まずよく言われるのは、「解決可能なので待ちましょう」ということです。
自殺を今したいと思っているかもしれないけれども、あなたが解決できないと思っている問題は必ず解決できますから、ちょっと待ってください、そしたらよくなりますから、という説明をします。
例えば、うつ状態、トラウマがある、そういうものは脳機能の病的な異常なんです。
うつ病でもう先が見えない、もう私は死んだ方がいいんだ、と思ってるときはそういう病的な状況なので、きちんとうつ病の治療していけば良くなります。それが無くなります。
確かに長くかかるんです。
半年とかかかることも珍しくないので、ギョッとするかもしれないですが、でも少なくとも半年ぐらいしかないわけだから、必ず回復するのでそこはお待ちください、ということを言います。
トラウマの問題もそうで、いつまでも忘れられないんですと言うのですが、これも治療していけば忘れるんです。
人間の記憶力は結局忘れるんです。
記憶はそもそもその都度その都度再生産されているんです。
冷蔵庫の中のものを取り出してカレーを作るみたいなもので、やり方を変えたら同じ材料で肉ジャガに変わったりするんです。
材料はあるかもしれないけれど、毎回カレーにする必要はないんです。
もうひと手間加えるとか、もうちょっと別の調味料を加えるとか、別の知識が加わることによって記憶は変わってくる。
だから一緒に治療していきましょうということになります。
社会環境の問題
2つ目は貧困や社会環境の問題です。
貧困の問題、自分は働けない、能力的な問題で働けない、パワハラがあった、訴えられている、親から虐待されている、色々なものがあります。
日本はやはり豊かなんですよね、豊かな国なんです、だから福祉で解決できることは多いです。
もちろんすごい大金持ちになれないじゃないか、TikTokに出ているような、YouTubeに出ているような、めちゃくちゃお金持ちみたいな、そういうのになれないじゃないかと言われて、そういうところはあるかもしれないけれども、基本的には生きていく部分は保障されています。
福祉の人は怖いんだとか色々ありますけど、そしたらもう一人かます、サポートできる人をかますことができる。これも解決できるので焦らず待ちましょう、ということになります。
人間関係、自己肯定感
あとは親子関係、人間関係、自分の自己否定的な感じ、親からずっと責められている、親戚から責められている、村の人から、みんなから責められている。
自分はダメな奴なんだと思うこともありますけど、これは解決可能だし、逃避可能なんです。
僕も自衛隊にいたときに「お前はダメなヤツだ」と言う人はいました。
大学2年生のときに久々に訓練が始まったら、敬礼を右手でやるところを、左手でやっちゃって、めちゃくちゃ怒られました。
お前はふざけてんのかという感じですっごい言われて、益田ヤバい、みたいな。
1年経ってるのに敬礼ひとつできないとか言われて、それが学年中どころかもう全学年に一回広がって、新しい2年になったヤツで、敬礼を逆にやっちゃたヤツいるぞ、みたいに言われて。
そんなことがありましたけど、その時はまだ大学受験が終わって1年ぐらい経ったところで、俺って本当にダメな奴なんじゃないか、親元から離れたあと、俺は本当に医者なんかなれないんじゃないか、敬礼できないヤツは本当に終わってんじゃないかと思ってましたけど、何かしらの解決は可能だし逃避可能です。
「僕は親に認められるのが人生なんだ」「逃げた人生なんか送りたくない」と思うかもしれませんが、いやいやまあちょっと待ちましょうよ、ということです。
別のところは別のところなりに結構楽しかったりします。
逆に良いな、みたいな。
何にこだわってたんだろうみたいな、そういうのはあります。
待ちましょうということです。
治療可能なので自殺は良くないということなんです、精神科医的な立場で言うと。
少なくとも僕が診てきた患者さんの中で、事故になってしまった人もいますが、治療可能ではないと思った人は1人も会ったことがないです。
僕の技術が足りなかったのか、相手の環境、知的な能力、その時のタイミングなどが合わなくてあれだったかどうかわからないですが、解決不可能なものは少なくとも見たことないなというのが僕の正直なところです。
だから自信を持ってやめましょうと言えますね。待ちましょう。
益田の腕が悪かったらよそにいい先生はいっぱいいますから、よそに行けばいいんです、ということです。
解決不可能な問題があった場合
ただもう一歩踏み出していくと、じゃあ解決不可能な問題があった場合どうなのか。
もうちょっと人文的なことを考えてみると、自殺ってそもそも何でダメなの、ということを人文科学的なものから考えていくと、色々なことが見えてくるんです。
過去に言われたことよりも、現代になったことで、過去はそうかもしれないけれども飢饉の問題があるよね、そうかもしれないけれど食事が足りないからまだ自殺のことは考えなくてもいいよね、と。
切羽詰まってなかったんだけれども、現代においては切羽詰まった問題に変わりつつあります。
それが不都合な真実として今出てきているので、そこも皆さんと共有したいなと思います。
まず人権の概念です。
人権というものをどう考えるのかは最近よく考えるんですけど、いよいよそういう話を真剣に考えなきゃいけない時代になってきたんじゃないかなと思います。
格差や分断がすごく出てきていて、資本主義や民主主義のちょっとした欠点が色々なところで目につくようになってしまった、というところからだと思います。
人はもちろん全員が平等であって、平等に権利を持つものであるんだけれども、現実それできないよね、と。
当時は戦争があったから、当時はまだ貧しかったからと言ったけれども、今少なくとも日本は戦争はなくて、国際交流も増えていって、食料も色々な意味で解決しつつあるのにもかかわらず人権が守られていないのはなぜか、ということです。
いやいや、本当に考えなきゃダメなフェーズに入ったんじゃない?みたいなことになっている、と。
あとは社会秩序の問題としてどうあるべきか、というのも見える化されてきたんじゃないかなと思います。
福祉を厚くするか。でも福祉を厚くすれば税がかかりますよね?
じゃあ税を減らして自由に任せるべきか?
そうすると今度は福祉が上手く行かなくなるんです。
これ、結構難しいんです。
例えば、今回コロナの件で対策をしっかりしましょうというときに、しっかりしたら色々な弊害があったんです。
しっかりしたせいでインフレが進んだよ、と。
戦争の影響もあるけれど、そんな単純話じゃないかもしれないけれど、少なくとも福祉を厚くした、お金をたくさん刷った、そしたらインフレが進んだ。
インフレが進んだ結果、例えば業績が悪くなって解雇された人も結構多かった。
IT企業の大きいところは良い機会だからと、解雇があったりしました。整理された。
それって良かったの? 本当に意味があることしてたの? というのはあります。
コロナの対策でしっかりロックダウンをした場合、ロックダウンをしてたんだけども、結局は中国もそうですけど、入ってきちゃって感染者がドッと増えちゃった。
これは良かったんですか?
色々な見方があります。
時間的猶予があったので、そんなに問題がある病気じゃないということがわかったから後で開放できた、時間的な猶予があったからできたという見方もできるし、いやいや、もうどっちにしろよくわからん、ぐちゃぐちゃになっただけ、いらん知恵を働かせたから無駄なことが起きた、ということかもしれない。
これは結構難しくて、社会主義というものが失敗した、どうしてかわからないけれども、歴史上色々な人がやっていて、本当に賢くて、最先端のことをして、強制力を持って色々なことをしたらすべて失敗に終わるんです、どちらかというと。
何もせずに自由に任せた方がいいじゃないか、ということが結構多いんです。
かといって、自由すぎたらやっぱり破滅するので、ここのバランスが難しい。
ただ、いよいよ今まで何となくやっていたり、技術的に困難だったのが、最近だと一瞬で世界中の人と情報共有できて一瞬で決断できるので、悩まなきゃいけない状況になっている、ということです。
あとは障害の問題です。
障害に対して色々なことがわかってきたので、出生前診断をしていいのかどうなのか、ということまで考えなきゃいけなくなってきているというのがあります。
出生前診断というのは、結局は殺人というか、自殺を補助しているとも言えるわけです。
そうじゃないという見方もできますけど、別の見方もできるわけで、それは個人の自由で決めていいのか?
それを拡大していけば自殺というのもひとつの権利なんじゃないか、ということが言えるわけです。
これは結構難しくて、治療者側からは良くなるんだからちょっと待ってよ、という話だけれど、人文的に考えると時間的な問題で人の命を決定していいのかとか、色々な理屈で考えたりするので、ここもややこしいなと思います。
成人の判断で意識がちゃんとしているのであればいいのか、安楽死はいいのか、ということにもなってくるので、難しいなと思います。
不都合な真実
考えていく上でもう一個大事なのは、本人の自由意志というものがそこまで尊重できるのかということです。
本人の自由意志ってないよね、という立場なんですよ。
治療すれば良くなるんだから。
治療すれば良くなるような意志なんてそもそもそんなに価値ないよね、ということなんです。
精神科医はどこか科学者なのでそういう目線がある。
実際、研究結果を見てみると、個人の努力とか個人の意志よりも、遺伝子や環境の影響の方がはるかに大きいということがわかってきているんです。
だから結局、運の存在というのはすごくあって、今ここにいる理由、今この状態である、今私たちが恵まれている、今私たちが恵まれてない、というのは、運の要素が大きすぎじゃない?という話が出てきている。
ということは、自分たちは誰かを傷つけている存在でもあり、自分たちが迫害者である。
障害者はかわいそうだ、障害者は運が悪かったんだというだけではなくて、障害者をつくっているのは社会だよね、ということは社会を運営しているのは僕らだよね。
ということは僕らって迫害者じゃない? という問題も突きつけられているというか。隠してますが実はそう。
精神医学のことを知れば知るほどそういう真実に気づいてしまうんです。
発達障害や境界知能、色々な特性ですが、そういうことがわかってきて、あれ?これどうやら話しても通じないよ、話していてもなかなか通じ合えない人が一定数いるよね、そもそも感じ方や考え方って生まれながらに結構違うよね、みたいなこともわかってきている。
でもそれを含めて多様性であって、それを否定してしまったら人類は上手く行かない。
はっきり言ってしまうと医学部とか東大生みたいに小さくまとまってるような人たちだと、世の中の社会的なイノベーションは起きないんです。
社会的に本当に解決すべき問題、大きな問題を解決しようと思ったら、小さくまとまった人間はダメで、やはり自分のトラウマや苦しみ、モチベーションと使命感が妙にグチャグチャっと混ざって、かつ運、特性、脳の歪みみたいなものがあって、それが大衆を巻き込んで大きなうねりをやるから解決していくんですよ。大きな問題というのは。
でももちろん、そのうねりの陰には数多くの失敗というか、非成功体験というか、非成功の出来事があるので、ここら辺もどう考えるのかなと思います。
昨今では炎上が多いです。
でも炎上って、結局、炎上を起こした側の人たちというのが、悪意がある、詐欺師のように世の中を引っかき回してやろうとか、そういうパターンはなくはないと思いますけど少なくて、どちらかというと、精神科医が言うとアレですが、発達的な問題、境界知能的な問題でそこまで考えが及ばなくてやってしまって、それがバッと火を噴いちゃう、非倫理的に見えちゃう、自己中心的に見えて火を噴くということが多いし、その周りの人も偏った正義感というか、切り替えが苦手だったり固執してたり、自分の考えにこうなりがちな人が多かったりします。
よく見ていくと、この中にすごい悪とかいないんじゃない?ということがわかってきます。結構見える化されてきちゃって、わかっていたことなんですがすごく見える化されてきて、問題が切羽詰まってきているのかなと個人的には思います。
SNSもそうだしYouTubeもそうですけれども、今まで見えなかったものが見えやすくなったんじゃないかなと思います。
見やすくなった結果、今まで後回しにできていた問題が後回しにできなくなりつつあるんじゃないかなと思います。
これは自助会の一人の人が、不都合な真実ですから企業の偉い方は精神疾患を知りたくないんじゃないですか、と一言ざっくり言ったんです。
これが僕の中ですごく大きなインパクトがあって、「えっ、不都合な真実!?」と思って。
確かに不都合な真実だなと思って、面白いなと思って、みんな人それぞれ色々なことを考えてるし、当たり前ですけど、みんな対等なんだなと思います。
やっぱりすごいなと思って学ばせてもらったという感じです。
でもそういうタイミングに来てるのかなと思います。
いや、もちろんその益田裕介が本当にイノベーションを起こすのか起こさないのかよくわからないですし、別に益田裕介である必要はないと僕は思いますけど。
でも思想や考え方、常識ということが今まで人類の中で変わらなかったことはないので、今後も変わり続けるし、変わり続けるひとつの方向性というか、未来の中のひとつとしてこういうものってあるだろう。
精神医学というのは不都合かもしれないけれども、どこかで社会が共有しなきゃいけないんだろうなというのは思います。
僕が生きている間に隠し通せるのか、僕が死んだ後に明らかになるのか、社会の価値観や思想の中に取り込まれるかはわからないですけど、でもどこかのタイミングでそれは取り込まざるを得ないだろうなと思います。
これだけ苦しんでいる人もいますしね。
今回は、自殺はなぜやめなきゃいけないのか、止めなきゃいけないのか、について解説しました。
その他
2023.2.15