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本日は「私はいつ死ぬのか」。死の本質ですね。いつ自分は死ぬと言えるのか。死の定義について語ってみようと思います。
このテーマを見たり考えたりすることで、人間の人生全体を見渡したり、ライフステージという概念を理解しやすくなるので、ちょっと難しいテーマですけど一緒に考えていきましょう。
いつも話していますが、日曜日は「死」を扱うということで、参考文献としてこの「死とは何か」という本をベースに語っていこうと思います。
もし興味がある方は概要欄にリンクがありますので読んでもらった予習になります。
コンテンツ
人間の人生
人間の人生を考えると、赤ん坊の状態で生まれますよね
受精した時から考えるという発想もありますが、とりあえず生まれた時からにしましょう。
子宮の時の記憶というか意識もあると言ったりしますけど、赤ん坊から子どもになってだんだん意識や記憶の連続性が保たれるのが3歳くらいから。3歳が4歳以降だと思いますけど、2歳の人もいますかね。
思春期に入り、大人になる。30代の手前ぐらいまである程度脳の成長があり、脳の成長が止まってきて中年となり、歳を取ると認知症になり、脳死、死という風に流れていきます。
認知症になる前に亡くなってしまう人もいますけど、基本的には長生きするとこういう流れになりますね。
なぜこう言えるかと言うと、基本的には脳の老化の方が早いんです。
胃腸が先に弱る人もいますけど、心臓は逆に強いんですよね。結構長生きします。
がんなどなければ、認知症に先になって、どんな人もいつか認知症になります。
認知症になって前頭葉がほとんど死滅しても、脳死のような状態で生きながらえることもできるし、最後は死という形になっていくということです。
これが人間の流れですね。
じゃあいつ生まれて、いつ死んでいるのか、ということですよね。
いつから命ってあるのって?ということです。
受精してからですか、卵子の時からですか、精子と卵子の段階で生きていると言えますか、法律的には受精してから何週間とありますけど、それはあくまで法的な問題なので、いつからですかとかあると思います。
そこから生まれてくるんだけど、最初の段階はやはり覚えてないですよね。
大人になってから振り返った時に思い出せる範囲から、自分は生まれてきたのかという考え方もできます。人間は未熟なまま生まれてきているので、生まれた時点で既に完成されているとは言い難いので、いつからでしょうかと。
思春期に入ったのをきっかけに、脳の構成が変わるんですよ。
性ホルモンの影響も受けるようになる。
中学生以降を「第2の誕生」と言って、ガラッと変わるんですよね。
今まで感じなかったことを感じるようになるし、人の目が気にならなかったのが気になるようになってくるし、恋愛とかそういう別の本能が出てきたりもするし、競争意識も芽生えてくるし、変わってくるんですよね。
逆にもうちょっと中年が近づいてくると、そういう自分の中の本能というか、リビドーみたいなものは落ち着いてきて、理性でわりとコントロールしやすくなるんですよね。
そこからが人間らしいとも言えるし、枯れちゃったとも言えるし、真の芸術作品はもうちょっと前の時に作られたりしますから。その時に完成したりする。
認知症になった時には自分の記憶が引き継がれていなくて、自分らしい判断ができなくなってきて、自分のことも他人のこともよくわからなくなってきたりします。
そういう時にはもう自分は生きているとは思えないと思う人もいるだろうし。
あと脳死ですね。何にも反応できない状態だけど、心臓が動いている状態の時に、身体は生きてます。身体は生きているけども、これは生きていると言えるのか、ということもある。
実際の死ですね。
遺伝子データが残っていたら、それは死んでいると言えるのかとかあります。
どこからが死んでいるのか
結構難しいよね。どこからが死んでると言えるのかと言いますけど、多くの人は認知症~脳死辺りなのではないかと思います。死んでると思うのは。
重度の認知症もしくは脳死くらいから、死んでいるというように思うのではないでしょうか。
肉体的な死というよりは、意識、「私」と呼べるものがなくなった時に「死んでいる」と感じると思うんですよね。
だから意識がない時に死んでいると思っているのかもしれない。
この本もそうですけど面白いなと思うのは、じゃあお酒を飲んでいて、めちゃくちゃベロベロで翌日覚えてない時、これは「死んでた」と言えるんですかということですよね。
これは死んでるのそれとも生きているの?
周りの人はうまく反応しているし、そんなに酔っ払ってなかったよと言ったりとかね。ちゃんと真っ直ぐ普通に歩いて帰ってたよとか言うかもしれないですよね。
だけど、本人は翌朝に全然覚えてない。
その間の自分は何なのか。自分じゃない人間が生きていたのか、それとも死んでいたのか、死んでいた自分が蘇ったのか、結構謎ですよね。
寝ている時はどうなの、逆に。
寝てる時に夢を見ずにぐっすり寝ている時がありますよね。
起きた時に、それは自分は生きてたんですか、死んでたのと一緒ですかと言うのもあります。
事故があって、2日間くらい意識が戻らなかった時に、それは死んでいたんですかと。
臨死体験と言ったりしますけど。
わからないですよね。
意識はあったけれど、人と交流の取れない時には生きていると言えるんですかとか、いろいろ考えたりします。
単純に意識がない時だけが、自分が死んでいるという風になっていくと、じゃあ寝ている時はどうなんですかということになりますね。
寝ている時と死んでいる時はほぼ一緒なんじゃないか、と考えているのがこの本の主旨だったりもします。
面白い発想ですけど。
あとは体の動きが止まった時、心臓の動きが止まった時が死んでいるということですかとか。
あと冷凍保存されていた場合、一回死んでも100年くらい冷凍保存されていて復活できた場合、それは死だと言えるのか。
これからどんどん科学が進んで行った時に、僕らの遺伝子が粉末状になっていてそこから復元して益田裕介を復活させられるかもしれない。1万年くらい経ったら。
それは益田は死んでいたということになるんですかとか。
生き返ることは死ぬことと一緒ですかとかね。これも面白い概念ですよね。
キリスト教的なものだと復活の日が来るんですけど、復活の日が来るということは死んでいたと言えるんですか。
難しいよね。
寝ている時と変わらないんじゃないですかとか、いろいろあります。
これも考えてみると面白いなと思いますね。
いつ僕らは死ぬと言えるのか。
あとは冷凍保存されるために、自分から年老いた時に、認知症になる前に冷凍保存されに行くのは「自殺行為」なんですか。
それともただ「眠り」に行くことですかとか。
宇宙旅行をする時に冬眠に入るのであれば、それは自殺ですかとか。
そもそも睡眠薬を飲んで寝ようとしているのは自殺行為ですかとかね。
面白いなと思いますね。
AI
あとAIで再現できるかどうかですよね。
今はChatGPTがあっていろんな受け答えをしてくれますよね。
うまくやると「哲学者が答えたように会話してください」とかできるんですよ。
これが進んでいく先には益田裕介が言いそうなこと。
益田裕介をAIで再現したいと思うかどうかわからないですけど、織田信長が言いそうなことをやってくださいとかできるわけですね。
そうしたら、本当に他の人が見ても見分けがつかないぐらい精度の高いAIができたときに、それは永遠の命を手に入れたかどうかってことですよね。
益田裕介とほぼ100%同じ受け答えをするAIが出現したときに、ほぼ同じような意識をしたときに、これは永遠の命を手に入れたと言えるのか。これも面白いですね。
ただ、人間は変化していくんですよね。だから、子どもの時と今の自分は連続性はあるように見えて結構変わってきてます。
趣味嗜好も違うし、記憶だって全てあるわけじゃないし、食べ物の好みも変わってますよね。
やりたいことや好きなことも変わっていると、本当に同じ人間ですかと思うじゃないですか。
だから変化していくということは本当に自分と言えるんですか、というのもポイントだな、面白いなと思いますね。
自衛隊時代の僕と今の自分は全然違うので、キャラも変わってきていると思うので、緩やかに死んでいるとも言えますよね。
緩やかに殺してきたとも言える。
例えばAIだったら特にそうですよね。益田裕介の100%みたいなものが出てきて、そのAIがもし学習しなければ死んでいるような感じがしますね。
200年前の益田裕介と同じようなコメントをしていたら、死んでいるような感じはします。
かといって新しい情報がアップデートされたAI、例えば1000年後くらいの益田裕介。死んだ後に100%復元されたAI益田裕介が1000年くらい経って新しいことを学習していたら、1000年前にできた当初の益田裕介と全く違いますよね。このAIは。
じゃあ同じ人間と言えるんですかとか、そういう事を思ったりしますよね。
俯瞰的に連続性が保たれていることと、生きていることというのはちょっと違う感じがしますよね。
なぜなら眠るとか成長するという変化によって変わってきているわけだからということですよね。
でも緩やかに変わっているのであれば、自分とも言えるかもしれないよね。
細胞というものが入れ替わるにしても、細胞は変化しているじゃないですか。脳細胞も入れ替わっているのですが、新しいものと古いものがね。
でも、連続性は保たれているのは、部分的に変わってきているから一貫性が保たれているとも言える。
難しいですか。
曖昧な概念
そうだなと思いながら、自分の中で連想しながら話を聞いてもらえたらいいと思います。
いろいろな議題が出てきて、いろいろなことを考えられますけど、結論ですね、やっぱり曖昧な概念だなと思います。
自我というものとか、人間が生きているとか生命というものを自己中心的に捉えたりすると、えらく複雑な論点になるんですよ。
天動説を説明するために複雑な計算処理が必要だったみたいな形で。
これを一旦地動説に変えちゃうと、星の軌道の計算は簡単になっちゃうんですよね。
同じように自我の同一性とか私という概念を一度放棄してしまえば、何のことないんですよね。
ただ、人間というのはこういう動物なんだというふうに理解できたりします。
私というものを一貫性があって、唯一無二の魂がある存在なんだと思ってしまうと説明がつかないことが多くて、そうじゃなくて、自分というのは緩やかに変化していくし、昨日の自分と10年後の自分というのは結構違うものになっているという。
緩やかに生きているし、緩やかに死んでいるということが分かると、ああなるほどなというのが分かると思います。
そういう中で法的なルールで区分されたり、カテゴリーされたりしますけど、自然というか宇宙というか、そういう視点に立つとこういうことなんですけどね。
まあそのまんまを受け取るとわかりやすいんだけども、固定観念で抑え込もうとすると、グチャッとしちゃうなという気がします。
ということで、私はいつ死ぬのか、というテーマでお話ししました。
ライフステージの概念を皆さんも考えてみてください。
死について
2023.5.14