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「死んでやる」と叫んでも、本当に自分が死ぬとは分かっていない

00:00 OP
00:43 自分が死ぬ?
02:13 自分の死後
05:21 想像できない人もいる
06:18 死ぬことを信じられない
10:57 「死ぬ」という概念は多様

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本日は「人間は自分が死ぬことを信じていないか?」というテーマでお話ししようと思います。

日曜日は「死ぬ」ということをテーマに動画を撮っていくと決めているのですが、今日は自分が死ぬことをどれくらい理解しているのか、ということをテーマにみんなで議論したいなと思います。

動画を見ながらコメント欄を読んでもらったり、コメント欄に打ち込むなどしてください。

自分が死ぬ?

精神科の臨床をしているとよく考えます。

「私はもう死にたいんです」とか、怒りに任せて「もう死んでやる」と言うことは多いんですよ。
患者さんはよく言って、その時に「いや、本当に死ぬと思ってないでしょう?」とか、「軽々しく死ぬと言わないでよ」とか、「お前は本当に死ぬってことはどういうことかわかってないんだ」とか家族が言ったりしますね。

そうすると患者さんは「いや、わかっているんだ」と言うんだけど、本当にわかってるかどうかよくわからない。
後から冷静になってみると、「あの時は何もわかってませんでした」「あの時はひどいこと言ってすいません」みたいなこともあったりします。

そもそも自分が死ぬということをどれくらい理解できるんだろうというのは疑問ですよね。

「自分が死ぬ」と考えたことがない人も多いんじゃないかなと思います。
いつか自分が死ぬくらいは考えるけれど、明日死ぬとか死んだらどうなるかとか。子どもがいたり危険な仕事をしている人は思っているかもしれないですけど。

でもなかなか死というものは想像しにくいことだと思いますし、想像できない人もいるだろうし、想像できる人もいるという感じはします。

自分の死後

自分の死後ですね。
死後をそもそも人は想像できないんじゃないかという議論があります。

死後どうなるかわからないですよね。死後どうなるかわからないのであれば、死ぬということを信じているかどうかわからないわけです。わかるとは言えないんですよね。

お寿司を食べたことがない人がお寿司は美味しいと口で言っていても、やっぱり信じているとは言いがたいというか。「だってお前食べたことないじゃん」と。
いまいち説得力がないし、信じているとは言えないんじゃないかみたいな感じありますよね。

ただですね、とは言っても、死後を想像できないかというとそういうわけではない。
やっぱり想像できるんですよね。

僕らは、例えば他の人が死んだ後のことはよく知ってるんですよね。他の人がどういう風に老いて死んでいったのか、死んだあと家族はどうなったのか、他の人はどういう動きをしたのかを基本的には知っている、子どもじゃなければ。

僕らも大切な誰かを失った経験はありますから、自分も同じようなことになるだろうなということは想像に難くない。

そうやって世の中が変化していくというのもわかるので、死んだ後のことというのは、現実界というか地球でどういうことが起きるかは想像つきますよね。

死んだ後の少し先の未来くらいまでは見えますよね。
自分が死んで5年後、10年後、子どもがある程度大きくなるぐらいまではわかるような気がします。
あとは見当違いかもしれないけど、未来を考えたりすることができるので、信じることはできますよね。

疑わないということが信じるということなので、自分が未来はこうなるんだとか、未来は火星に行くんだとか、死んだあとは天国があるんだ、地獄があるんだと想像しているのであれば、死ぬことを信じる。自分は死ぬということがわかっているとも言えるかなということですね。

あと寝ている時ですよね。
自分が寝ている時は意識がない。意識がないという状態は死んでいることと一緒だから、寝ている時みたいになるんでしょう、じゃあわかりますよと想像できることもあるかなという気がします。

いろいろな議論をぐちゃぐちゃと混ぜて喋っちゃいましたけど、自分の死後を想像できないかというと、そんなこともないなという感じはします。
他の人の死も見ているし、ちょっと先の地球で起きることは想像ができるし、想像できないにしても何か別のことを考えることができる。
寝ていることを連想すれば、どういう状態に自分の死がなるのかもわかりやすいのかなという気はします。

想像できない人もいる

ただ、想像できない人もいるのは事実なんですよね。
自分の目で見ていないものがいまいち理解できない人もいる。

脳の外傷の結果そういうことがわからなくなってしまった人もいるし、発達障害の人の一部は死後を想像しにくいとか、目の前にいない人のことをうまく想像できない人も一定数いるので、自分が死ぬことがよくわからない人がいるのも頷ける感じです。

あとは想像とかせずに、なんとなくその場の中で表面的に適応して「ああ、僕も死ぬよね」と言う人もいます。
深く考えない人もいます。
それは能力的な問題というか、思考の問題という感じでいるので、自分が死ぬことを信じてない人もいるんだろうなという気がします。

死ぬことを信じられない

今度は死ぬことを信じられないという立場の人間の論点だと、そもそも誰も真実を知らないよねということです。
誰も真実を知らないんだから、それが「信じている」とは言えないんじゃないかということですね。

お寿司を食べたことがないんだから信じられないよね、ということですよね。お寿司のことはわからないでしょ、というのと一緒です。死ぬことを信じてないよね、と。

左側はお寿司を食べたことはないけれど、お寿司を食べた人の意見とか聞いているし、お刺身うまいから、たぶんこんな感で作ったやつを食べたらおいしいのはなんとなく知っているよという意見ですね。
まあ、どっちも真実だなという気がします。

そもそも君たちが語ってるのは死ではなくて生の延長のことでしょ、地球の話をしているじゃないですか。
死んだ後の自分の意識はどうなるかとかは話していないし、それは寝てる時の感じと一緒でしょっていうのは寝てる時って生きている時だから、あくまで生の延長線上でしか考えてないから、その議論は意味ないよねみたいな、中国の老荘思想に似ていますけど、そういう意見もあるなという気がします。
まあ、なるほどなという気はします。

そもそも古代から人間は神を信じていたよね、神を信じていて死後の世界も真実だということだから、自分が死ぬということは信じてないということですよね。
宗教を信じている。それは人間の本能的だしプリミティブなものだから、そういう点から人間は死後を信じない、死ぬということ、消滅するということを信じていないんじゃないか。

あとお金や国家というものを今の現代人は信じているんですよね。
死後に歴史が残ることを信じている人はいませんか、そもそも地球が残るということを考えている時点でも宗教と似てませんか。

つまりそれは死ぬということを本当の意味で理解していないんじゃないですか、という意見ですよね。
これも納得ですよね。

「いずれ死ぬだろう」ということと、「いつ死ぬ」は違うんですよね。これも面白いですね。
いつかは死ぬと思っているけども、明日死ぬと思って生きていないわけですよ。

明日の何時何分に死ぬからそれに向かって最後の晩餐を食べて、何時何分には何しようとか考えているわけじゃない。それは死ぬということを信じていないのと一緒じゃないのか。

例えば戦争で戦っている人たちが、出血多量で死にそうな時にも死ぬことを考えて動いてないんですよ。
助かってやろうと思って止血したり、なんとかやろうとしているわけですね。
ということは、人間は死ぬことを信じてないんじゃないのと、死ぬだろうと諦めずに動くということは、死ぬことを考えられないからじゃないのみたいな意見がある。
これはまあなるほどなと思いますね。

生きようともがく。最後の最後は。
「ああ、死ぬなー」とすとーんといくことはなくて、どちらかというと「ああ、死にたくない」と最後にもがいたり苦しんでいる姿をよく見ますから、そういう意味では死ぬということを信じてないからでしょうということですよね。
これも面白いですよね。

直前になってあがこうとするのは、死ぬことがわかっていないからだということですよね。
わかっていたらね、映画のようにね、ストンと。「じゃあ、もう」と眠るように死ぬんだけれど、そういうことは現実起きない。

後は結局、想像できる人もいるかもしれないけど、それってごくごく少数なんじゃないの?という意見です。
これもまあなるほどなと思いますね。

そこまで腹をくくっている人はいるかもしれないけれども、およそ人間業とは思えないし、いたとしても本当に天才級の抽象的なものを考えられる人なんだということですよね。
そういう意見もわかりますね。

自分が死ぬということはどれぐらいの水準で理解しているのか、どれくらいの水準で理解できるのかは、いろいろな議論ができるし面白いなと思いますね。

「死ぬ」という概念は多様

この話の結論で何が大事かと言うとですね、僕は死ぬという概念がとても多様なんだということだと思います。
一言で「死ぬ」と言ってもいろいろな見方ができるし、なかなか議論が噛み合わない感じを見てもらえばわかるんですけど、死というものの定義の難しさですよね。

噛み合っていないのはなぜかというと、益田のプレゼンが下手というのもあるんだけど、そうじゃなくて、そもそもこの概念を定義づけるのが結構難しくて、定義をしたところで面白みがないものになってしまう。
そもそも日常から離れすぎてしまって、議論自体の意味がなくなってしまったりするのでということです。

だから死ぬという概念はとても多様だったりしますね。
臨床家目線から見ていくと、つまり「死にたい」という患者さんの言葉はすごく多様だということですね。「死ぬ」ということを本当の意味で捉えてないことの方が多いような気がします。

本当は死にたいんじゃなくて消えたいんじゃないかとか、死にたいんじゃなくて助けてほしいんじゃないかとか、死にたいじゃなくて今の苦しみを取ってほしいということなんじゃないかとか、死にたいという言葉じゃなくて、寂しくて心細くて自分のことを否定してしまうんだとかね。
そういうことなんじゃないかなと思いますね。そんな風に思います。

こんな人生は嫌だなとは言うんだけれど、今の人生を変えたいという意味での「死にたい」ということだったりするのだろうなと思います。

とにかく死ぬということはとても難しい概念で、これを理解できるかは難しいです。
本当の意味で理解はしにくいということです。

死にたいという患者さんの意見というのは違う可能性が大いにある、ということがこのディスカッションからはわかるんじゃないかなと思います。

今回は、人間は自分が死ぬということを信じていないか、死にたいという言葉は本当は違う意味があるんじゃないか、というテーマでお話ししました。


2023.5.21

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