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SNSでの発言は「自由」で良いのか? 功利主義、義務論からメンタルヘルスを学ぶ

00:00 OP
02:24 功利主義
08:03 義務論
11:19 誰かが犠牲になる自由は良くない
12:58 言葉で言っているだけでも

本日は「インターネットでの自由な発言、SNS利用」というテーマでお話ししようと思います。

毎週金曜日は宗教や哲学、歴史の中の各国における代表的な思想家などを取り上げています。
そういう人たちの視点から精神医学や今の精神疾患領域、メンタルヘルス領域の悩み事を考えてみようということをやっているんですけど、今回は功利主義と義務論。カントの義務論を取り上げたいと思っております。

ベンサム、J.S.ミル、カントが超有名所で、今日の道徳を考える上での基礎となっている人たちなんですけれど、いっぺんに説明するとちょっともったいない気がします。
ただ、この3人を学ぶにあたって同時に理解した方がわかりやすかったりもするので、今回はいっぺんにさらりと取り上げてみようかなと思っています。

どこまで自由に発言していいのかということですけども、たぶん皆さんある程度の共通認識はあると思うんです。
例えば、他人への悪口は言ってはいけない、他人への誹謗中傷をしてはいけない、プライバシーを傷つけるようなことをしてはいけない。
そういうのはあると思うし、脅したりするのもダメだと思います。
あとは相手を攻撃するだけじゃなくて、自分への攻撃ですよね。
自殺をほのめかすというのもやっぱりダメなんじゃないかと思っていると思います。

でも、具体的にそれはどうしてなのかはよくわからない。
よくわからないというか説明しにくい。かつ説明が難しい人も結構いると思うんです。
今回の話を聞けば、そこら辺がどうしてダメなのかを倫理的に哲学的に答えることができるようになると思うので、最後まで見てもらいたいなと思います。

功利主義

この功利主義とかカントの義務論の話というのは、18世紀から19世紀に完成された考え方なんです。

近世、近代に入ってきて、西洋ではこれまでキリスト教の教えが絶対だったんです。
神父さん牧師さんが言っているから、それを守るのが正しい。神様の言う通りにする。神様に逆らわない、神様に従うことが道徳的に正しいことだったんですよね。
聖書の教えに従うことが正しいことだったんです。

ただ、だんだん神様のこと、聖書のことだけでは追いつかなくなってくる。
それで、聖書を疑い始めることを人類はしていくんですよね。
聖書に書いてあることが全てじゃないよね。聖書に書いてあることだけを信じていたら、新しいことがわからないよね。
科学って成立しないよねということがわかってくる。

では、神様を抜きにした場合、神様はこうなんだという発言を抜きにした場合、どうやって人間社会の秩序を作るのか、道徳的正しさを証明するのか考えるのかということを哲学者たちは考えるようになるんです。

その結果、いろんな考え方ができていくんですけども、まあある種完成された理論がカントの義務論だったり、功利主義だったりします。

功利主義というのはどういうものかというと、功利主義は結果から考えるんですね。反対にこの義務論は結果ではなくて、こうだからこうすべきなんだ、という考え方をするんです。

現代の資本主義社会はどちらかというと功利主義的な考え方をするし、功利主義的な考え方が好まれますね。功利主義というのは何かというと、最大多数の最大幸福を満たしなさいということなんですね。

だから、何かをした時にその行為をした結果がで最大幸福になる、多くの人を幸せにするようなことをしなさいということになるわけです。
だから、インターネットで自由な発言ができるというのは、多くの人がハッピーになるわけですよね。

政府の一部の人とか、権力者たちが、あとは売れっ子作家は自由な発言されたりすると困るわけですよ。
自分の取り分が減るから。
自分の言うことを聞いてくれた方がいいんだけれども、みんなが自由に発言して重要なことができた方が結果的にみんなハッピーになるし、自由な競争が起きて色んなことが進展しますよね。
だから自由にしましょうというのが功利主義的な考え方です。

誰かの悪口を言うとか、誰かの足を引っ張るようなことは、結局回り回って最大多数の最大幸福を損なうよね。だから嫌な思いをしている人がいると、みんなテンション下がるから良くないよねと言ったのがベンサムの考え方なんですね。

J.S.ミルは幸福というものも質が違うだろうとか、肉体的な快楽よりも精神的快楽の方が上だとか、そういう風に言ったんですね。
だから同じ幸福であっても、ベンサム的に考えると、それは差はないと考えるんです。

肉体的な快楽も精神的な快楽にも差はないということで、でもどうやって大きくするのかを考えるんだけれども、次の世代になってくるとやはり同じ快楽でも質の差があるよねと言いわけです。

僕らはやはり成功するとか人に認められる心地よさもあれば、ドラックをするとかお酒を飲むという快楽もあるんだけども、どっちも同じですと言われても納得いかないですよね。
じゃあずっと気持ち良ければいいんだろということでね、生きている間はずーっとお酒飲んでずっとクスリを続けるのが最大の幸せかというと、そういうわけじゃない。
そういうことをJ.S.ミルは言ったわけです。

この場合は自由は認められるんだけども、それは他人を攻撃しない、誰かの不幸を生み出さない、誰かに危害を与えない、という条件の下で最大限の自由を図るべきだとJ.S.ミルは言ったんですね。

わかりますよね。誹謗中傷とかすると、結果的にSNSが荒れてくるし治安も悪くなってみんなやらなくなっちゃうわけですよ。
だから巡り巡ってそういうことになるんだからやめようよ、という考え方もわかる。
でも誰かが傷つく上での幸せってありえないよねみたいな形もあるなという気がしますね。

義務論

同じようにというか今度は逆ですね。結果がどうであれ、結果じゃなくて、とにかくダメなものはダメでしょうという考え方。
それがカントの義務論です。

ダメなものはダメというのはどういう風に決めるかっていうと、もし何ならばなんとかだろうというのは仮言命法と言って、こういう考え方じゃダメだと言うんですよね。
だから定言命法じゃなきゃいけない。

道徳というのは定言命法じゃなきゃいけないと言うんですよ。難しいね、難しいんですけど、まあついてきてください。

「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的な法則として妥当しうるように行為せよ」
万人に妥当するものとして、行動すべきである、ということです。
ちなみに「あなたの人格と他者の人格の内なる人間性を、常に同時に目的として取り扱い、決して単に手段としてのみ取り扱わないように注意せよ」ともいわれてます。

普遍的であることっていうことが定言命法のルールなんですね。

つまり、確率というのは何かというと、個人が考えてこういう風にやろうという意志ですね。
主観的な意志のあり方が普遍的であること、つまりみんなが同じように考えてもいい、誰にも迷惑をかけないで良い状況にしなさい、みんながハッピーになる状況にしなさいというのを定言命法というんです。

例えば、ゴミのポイ捨て。一人暮らしならいいと思うんだけど、でもこれが全員ポイ捨てするようになったらやっぱり嫌なわけですよ。
一人に対して攻撃してもいいだろうではなく、かもしれないけれども、これが仮に100万人とかが同じことをやったらどうなる? 社会が荒れちゃうよね、そういう悪いことはやめましょう、ということです。

カントは色々なことを言って、個人の人格を道具としてではなく、目的や結果としてではなく、主体として扱いなさいと言ったりしました。
どっちもわかるなという感じがします。
他のいろんなカントの考え方を知らないと定言命法を説明するのは難しいですね。

義務論は言っていることはまあそうかもしれないけど、結局よくわからない感じもする。
かといって、功利主義は結果だけ見てるから、結果っていつわかるの?という話です。
その結果というのは、3日後か10年後か100年後かわからない。
原子力発電や火力発電は今ハッピーかもしれないけど、環境汚染で未来の子孫が困るんじゃないか。原子力発電は短い期間で見ればCo2が増えないからいいかもしれないけれど、災害があった時にどうなってしまうのかとか。
功利主義だけでは説明がつかなかったりもします。

誰かが犠牲になる自由は良くない

結局じゃあこういう発言から見ていくと何なのかというと、とにかく誰かが犠牲になってまでやる自由は良くないよ、ということがこの2つから導けるということですよね。

他人への攻撃とか誹謗中傷は何でダメかと言うと、法的に問題なければいいんじゃないかとか、そういうわけじゃない。
匂わせ発言はいいんじゃないかと言うんだけれど、それはやっぱりダメなんだよね。
道徳的にはありえないという感じですよね。

自殺などのほのめかしというのは自分が困るだけだからいいんじゃないのと思うかもしれないけれども、やはりこういう話をすることで、他の人がやっぱり影響を受けちゃうんですよね。

SNSで他の人々が影響を受けて、結果的にその人たちの幸福度を下げたり、自殺をさせやすくしてたりしてしまう。こういうことをウェルテル効果と言ったりするんですけど、なので駄目だと言ったりします。

だから逆に回復したよという話は、他の人達のメンタルヘルスを向上させることがわかっているので、こういうのをパパゲーノ効果と言ったりします。

とにかく一見自分のことだからいいでしょう、自分の勝手でしょ、自由でしょ、と思うかもしれないけれども、もうちょっと俯瞰的に見ていくと、誰かに悪影響を与えたりすることもあるので、そういうものはダメですよということになります。

言葉で言っているだけでも

もうちょっと精神科医目線で喋ると、そもそもそういう自分を傷つけるようなことを言うと、ハードルが下がっちゃうんですよね。

言葉で言ってるだけだからいいでしょと言うかもしれないんだけれども、言葉で言うだけなんだけれども、知らないうちに自分を傷つけていくし、知らないうちに自殺へのハードルを下げてしまって自殺のリスクが高まるのがわかっています。

後は嫌なことがあった時に「死にたい」という言葉をつぶやいていると、これが条件反射になって何か嫌なことあったらすぐぽっと死にたいという気持ちが出てくるんですね。
そうすると、条件反射が増えていって、条件反射的に「死にたい」となってくるので、頻度が増えていくことによって、実際に自殺になってしまったこともあるだろうし、何より周りから人がいなくなっちゃうかもしれないですよね。

そういうことを言う人の周りにいると、最初のうちは共感してくれたりとか励ましてくれて、「ああ」と思うかもしれないけどけれど、長い目で見ると周りから人がいなくなってしまうので、やはり良くないんじゃないかなと思います。

いやそうは言っても聞いてほしいんだとか話を聞いてほしいし、誰かには言えないこともあるし、すぐ身近な人には言えないか。
匿名の状況で匿名の誰かに書きたいんだって思うかもしれないけれど、ちょっと考えてよということです。

そして死にたいとかじゃなくて、もっと別の言い方をすることで共感しやすくなるとかありますから。
「傷ついている」とか別の言い方もありますね。
言い換えることを常に検討してください。

この話は何でしようと思ったかと言うとですね。まあ、僕のオンライン自助会をやっていて思うんですよね。
Slackというところで、テキストでコミュニケーションを当事者の人たちがやっているんですけれども、まあうまくやれる人もいれば一部うまくやれない人もいるんですよね。

そういう人たちとうまくやっていくにはどういうルールが良いのかということで、今回こういうことを調べたり、自分でもまとめたりしました。

オンライン自助会も結構難しくて、だいたい半分以上の人はやめます。今のところね。
入る人もいれば出る人もいて、半分以上はやめちゃうイメージですよね。

カウンセリングの継続率もそもそもそんなものだったりしますね。6割とかだったりするので、5~6割だったりするので、自助会も同じような割合、最後までいることはなかなかないですね。
すぐやめちゃう人も多いと思います。
みんな納得してやめるとかこんなもんかなと思ってやめるってわけじゃなくて、腹を立ててやめる人たちも一部います。

いろんな事情があると思いますし、いろんな病気の状況とかもあると思うんですけども、何て言うんだろうね、やっぱりこういうルールをしっかりしていくことはとても重要だとは思います。
こういうことを少しずつみんなに知ってもらえればいいんじゃないかな、と思って動画にしました。


2023.6.9

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