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好意と性愛、男女の友情は成立するか?

00:00 OP
02:29 「感情」は学習によって作られる
05:54 性衝動は語られにくい
09:49 精神科の話
14:33 知識や経験を積んでそれを言葉にしていく

本日は「好意と性愛(性欲)」というテーマでお話ししようと思います。
俗っぽいタイトルを言うならば、「男女の間に友情は成立するのか」というテーマですね。この話をしようと思います。

つまりですね、友情関係であっても、性欲に結びついてしまう人がいるんですよね。
一見普通に尊敬しているというものが性欲と結びついちゃうとか。
それは異性の間であっても起きるし、同性の間でもあったりするんですよね。
そういうバウンダリーが弱いというか、境界が弱いというか。

性的なスキンシップを全て否定するつもりはないんですけど、文化ごとに違うところもあるので。全てを否定するわけじゃないんだけれども、いますよね。

男同士でも仲良いから「俺たち」みたいな感じってあるわけですよね。
だからまあそういうのはありますね。そういう世界は。

ただそれがいい側面ばかりじゃなくて、どちらかというと悪いことのほうが多いです。
尊敬している人に同意なく性行為をされてしまうということもあったりするし、逆に自分が友情を結びたい人とか尊敬してる人に対しても、肉体を差し出さないと自分は一緒にいられないんじゃないかという感じになってしまう。
むしろ性的に求められないと自分は愛されていないんじゃないかと錯覚しちゃうとか。
そういうことがいろいろあるんですよ。

精神科の中では結構よく語られるテーマだし、きちんと分けていかなきゃいけないねとか、そこら辺は分化できるように学んでいかなきゃいけないね、ということをよく話します。

こういう話をしてびっくりされる方も多いと思うんですよ。
そうなんですか、知らなかったです、という人も多いと思いますので、今回動画にしてみたという感じです。

「感情」は学習によって作られる

この話をする上で前提となる知識を2つほどお話ししたいと思います。
一つは、脳科学神経科学、もしくは心理学的な話なんですけれども、「感情」というのはそもそも学習によって作られていくものなんですよね。

生まれた時には複雑な感情はないんですよね。
快か不快、もしくはリラックスしているかドキドキしているかの2軸しかないと言われます。
これはマイヤーズの心理学です。

それがだんだん増えていくんですよ。
例えばドキドキしていて快感があると言うとすごく高揚しているとか、熱狂しているとか楽しいとかですね。逆に快でリラックスというと、落ち着いてる、リラックスしている、ホワホワしている、そんな感じ。

不快かつ心臓の流れはゆっくりしていると、だるいとか不安、何か気持ち悪い、重だるい、疲れているという感じ。
不快かつドキドキしている心臓が高まっていると、怒りだったり、過度な恐怖だったりとかするという感じです。

最初は4通りぐらいしかなかったのが、だんだんその中で怒りと恐怖を分けて考えるようになったりします。
脳が発達するにつれて感情が分化していくし、知識や経験が積み重なることでいろいろ変わってくるんですよね。
これは言語や社会背景にも結構規定されていて、言語化が得意になればなるほどいろいろな感情を味わえるようになったりします。
あと区別がつくようになります。

これは何て言うんでしょうね。説明しにくいんですけれども、例えば日本語だと「好き」と「愛する」しかないんだけども、好意を表す言葉とかは。尊敬もそうかもしれないけど。
英語だともっとあるんですね。LIKE、LOVE、CAREFULとかいろいろありますね。

同じようなものを指していても言葉の数が違ったり、言葉の数が違えば違うほどその文化圏ではその現象に対して深い洞察があるという風に言われたりします。

例えば、牛は英語ではCOW、BEEF、とかいろいろあります。CATTLEもある。
日本では牛しかないですよね。
逆にアメリカではRICEしかないですよね。英語圏ではRICEしかないんだけども、日本語だったら、ご飯、白米、めし、稲、玄米、稲穂、モミとかいろいろある。

いろいろな言葉があればあるほど感情豊かだし、そこに対する含蓄があるということがわかっているということですね。

成長していくといろいろな感情を分けて考えられるようになるんだけど、未熟なうちはわからないんですよ。
「好きだな」と思うと全部Hなこととくっついてしまうというのはあるんだよね。

性衝動は語られにくい

もう一つは「性」という衝動は語られにくいんですよね。
アンタッチャブルなところがすごくあって語られにくいですね。それを本当に語るべきかという問題ももちろんあるのかなという気はしますけどね。

性という衝動は少なくとも現在の日本、世界中において、過去から今にかけても、やはり大っぴらに語られるものではなかったですよね。語られにくいものだった。

それは「死」を語る言葉が少ないとか、精神疾患のこと、メンタルヘルスのことを語る言葉が少ないように、性という衝動についてもあまり言葉が多くないということはわかっているし、語られにくいですよね。

教育をすればいいのかどうかというのは、いろいろな意見があると思います。
性教育を早い段階ですべきなのかということはいろいろな意見がありますね。

僕はどちらかというと、あまり早いうちからすべきではないと思っている立場です。それはなぜかというと、語られることで性のハードルが下がってしまうからというのもあります。
慣れ親しむことで。
だけど語られないから悪い方向に行くこともあるので、難しい塩梅ですけどね。

ただ、発達障害の人にはある程度の段階が来たら伝えていく必要があります。暗黙のルールとか少しずつ自分で学ぶことはできなくて、夜に男の人についていっちゃうとか。
そういう暗黙のルールがわからないんですよね。

夜、男性と二人でご飯を食べに行って、帰りも遅いし家でちょっと映画でも見ない?とか、お茶飲みに部屋に来ない?と言われて行って二人きりになることは、ある種性的な行為を同意しているのと同じくらいな感じになっちゃうんですよ。それは社会的に。だからそういうことを知っておく。
そういうことを望んでいない場合だったら、早い段階で断ることが大事です。

直接的に言ったりしないんですよね。人間社会というのは。
オブラートに包むところもありますから。

かといって、こちら側が直接的なことを言ったりすると角が立ったりもするので、語られないんだけれどもそこにある種の文化、やりとりの信号がたくさんあるので、教育が必要だったりします。

あとはLGBTQの問題もあって。
同性愛の話がしやすくなってきているのは本当にここ最近の話です。
コメント欄を見るといろいろな話が出てきそうなんですけど、長らくキリスト教圏内では否定されていた、あまり良いものとされていなかったんだけれども、最近は少しずつ理解が進んでいるという状況です。
だから語られにくいですよね、LGBTQの問題というのは。
今でも差別偏見があったりします。

語られにくいので語られていないから学習が進んでいない。
学習が進んでいないので、好きという気持ちと性愛が簡単に結びついてしまうという現象が生まれているのもあるのかなという気がします。

だから男女の友情は成立するのかというと、未熟な人の間では成立しない。
きちんと分別がついてくると成立する、ということになります。

精神科の話

では、精神科の話をすると、それは本人の資質の問題なのかとか、本人が空気を読まなかったからだとか、人間に関心を持たずに自分の好きなことばかりやってたから駄目なのかというと、そういうわけでもない。

発達障害的な問題があるから、他人に関心がなくて性愛を学ぶとか好意を学ぶ機会がなかったというのも言えます。
もう一方は、家族関係の問題で好意、愛情というものを学んでこなかったからわからないということもあるんですよね。

普通の人であればと言うとあれですけども、両親がいて祖父母がいて兄弟がいて、同級生や友達がいて、学校の先生とか別の人、親戚のおじさんとかいて、いろんな人に囲まれて愛情をもらったり、好意をもらったりしていく中で人間のことを学ぶし、その人との付き合い方を学ぶし、愛情の受け取り方も学ぶんですよね。

祖父母からもらう愛情や向ける愛情と、両親に向ける愛情ってやっぱり違いますよね。
全然違うんですけど、そういうものがないとやはり学ぶ機会がなかったりします。

一方で孤立している家族がいるんですよね。片親だったり、虐待的な家族だったり。
精神的に未熟な親だった場合、子供に向ける愛情と性欲の区別がつかなかったり、子供に向ける教育と自分の中の怒りの区別がつかなかったりします。子育てはそれなりにイライラしますから。
わかりますよ、決して自分の思い通り行くもんじゃないので。

自尊心を傷つけられるし、自分の嫌な部分も子供の中に投影されるし。
そこをぐっとこらえられないとその怒りがバッとぶつかってきて、子供はただ混乱してしまうこともあったりします。

学習経験ができない子たちがたくさんいるという感じです。
精神科の中では特にたくさんいますね。
患者さんの話を聞くと、虐待だったり、いじめだったりという話が本当によく出てきます。

そうなってくると、大人になってから誰かから好意だったり、何かを向けられた時に、これが性欲なのか、尊敬なのか、普通の友情なのかよくわからない感じになっちゃうんですよね。
区別がつかないなので、結局性愛に結びついてしまうことが多かったりする。

例えば、いろいろな家族間の問題が解決しないうちに、12歳、13歳で思春期を迎えるんですよ。
女性であった場合、男性もそうですけど、若いというのは市場価値があったりしますね。
若いが故に市場価値があって、その中でいろいろな人から好意とか性欲を向けられているうちに、よくわからなくなっちゃう。

そこにお金が絡んだり、本人の自尊心だったり、アイデンティティの問題が絡んだりするとぐちゃぐちゃになることは結構あります。

あとは男性の場合は、社会から拒絶される時期でもあるんですよね。
一般論というか偏見っぽいですけれど。女性よりも若い男性はモテないですね。モテにくい。
若い女性におじさんたちも向かっていくとか。
若い男はモテなくて悔しい思いをしたりとか拒絶されるような感じ。

そして社会に出てくると、男の中で揉まれて屈服させられることが多いんですよね。だからすごく怒りがあります。
それはある種の虚勢というか、エディプス・コンプレックスというか、あったりするんですけども。
怒りや攻撃性が性欲と混ざるような感じもあったりするし、まあとにかく悔しかったりしますね。
特別な感情を抱きやすかったりするということかなと思います。

知識や経験を積んでそれを言葉にしていく

正しい性愛は何なのか。
互いに尊敬し合って、コミュニケーションを取れている状態で初めて性行為をするということなんですけど。現代の常識では。
常識的であることは守られやすいということだし、安全だということなんです。

それをちゃんと理解できているのか、正しい家族愛、家族像ということを理解できているのか。
「正しい」というと語弊がありそうですけど、いわゆる常識的というか、オーソドックスなスタイルは理解できているのか。

オーソドックスから外れることがダメだというわけじゃないんだけども、ある種の危険性は伴いますよね。
リスクを伴うことを理解しているのか。

でも家族像がこれから変わっていく中で、本当に保守的な形の家族像が正しいと言えるのかとか、いろいろ考える余地はあるんだろうなと思いますね。

結局、今はルッキズムの問題とか、モテとか自己肯定感がぐちゃぐちゃと結びついていて、SNSでそれが助長されているという感じですよね。
モテることには価値があってモテないことは価値がない。だからこれを買え、みたいなことでもグングンやられているわけですよね。
いいねがつけばいい、みたいな。
そこで混乱があったりしているというのもあると思います。

あとはある種の不満足はあるわけですね。若いうちというのは。常識的な不満足。
ある種の不満足というのは絶対あるんだけども、それを異常事態だと捉えるのか、それともこれはみんなが感じている不満足なんだから、自分も我慢すべきなんだという風に耐えられるのかというのもありますよね。

孤立しているとか、人とのつながりが希薄だと、それが常識的な不満足なのか、それとも異常事態なのかの区別がつかなかったりします。

あとは子育てを伴わない性行為というのは、そもそも許されるのかということも視点としてはあるのかなと思いますね。
婚前行為ですよね。そもそもいいのか。
人類の歴史では婚前行為を禁止してきたんですよね。長い歴史の中で。そういうカルチャーが多いですよね。
それはやはりそれなりの妥当性があったわけで、積み上げてきた伝統を崩したことはどういうことなのか。どういうリスクがあるのかも考えてみると面白いなと思います。

結局、未熟であるということは、心についてあまり詳しくないということなんですよね。
だから好意と性欲が結びついている時に、そこの部分がきちんと切り離せない。そこに対する言葉が豊かじゃないということは、そういう未熟さがあり、そして危うさがあるということなんです。

なのでしっかり学んでいく。いろいろなことを学んでいく。
いろいろな知識や経験を積んでそれを言葉にしていく。
そして自分の感情、今味わっている感情を言葉にしていくことはとても重要だろうなと思います。
そうすることで、自分のマインドをコントロールしやすくなりますのでね。

今回は、行為と性愛というテーマでお話ししました。


2023.6.10

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