本日はジャン・カルバンですね。1509年~1564年に生きていたフランスの神学者を取り上げてみようと思います。
ジャン・カルヴァン、聞き慣れない人の方が多いかもしれないですが、めちゃくちゃ有名人なんですよ。
宗教改革を支えた代表的な一人で、エラスムス、ルター、カルヴァンとですね、高校の倫理ではテストに出てくる感じですね。
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宗教改革
宗教改革とは何かというと、ギリシャ時代にいろいろな文化があったんだけども、一回ローマ帝国が出てキリスト教を国教化した後にそのギリシャ文化って途絶えるんですよ。
途絶えてギリシャで学んだ哲学とかいろんな技術はイスラムの世界に行って、いろいろなことが進化していくんですね。学ばれ続けるんですね。
イスラム対キリストの時代になって、それで十字軍を派遣するんですけど、その時に一緒にギリシャの時の知識を持って帰ってくるんですね。
それをきっかけにルネサンスが花開いてくるんです。
そこから科学のことをヨーロッパの人たちも学び始めて、コロンブスがアメリカに行ったりしてアメリカ大陸を発見したり、いろいろなことが起きるんですよ。
いろいろな科学のことをやっていくと「あれ? 聖書が言ってることなんか違くない?」と疑い始めるんですね。
やっぱり人間ってすごいよねと。人間こそ大事なんだと。
宗教の教えよりも世俗的なもの、科学のことを重視していくような形になっていきます。
それでもやはりキリスト教の影響力、カトリックの影響力が強い。
でもカトリック教会というのは同時に腐敗していたんですね。腐敗というかまあ、もうめちゃくちゃ管理していたわけですよ。めちゃくちゃ金持ちになっていて、教皇はすごく偉くて、本来キリスト教はみんなが平等であるはずなのに、その教えが守られていないような形になっていたということです。
「その教えってちょっとおかしくない?」みたいな形で突っ込んだのがエラスムス、ルター、カルヴァンとあるんですけども、まあ有名なのはルターですね。
ドイツの神学者でこの「95カ条の論題」という形でキリスト教を批判するんですよ。
それが本当かどうかわからないですけども、それを書いたやつを教会の壁に打ち付けたと言っているんですね。
実際は違うみたいですけども、そういう象徴的なシーンに代表されるような感じ。ルターがやったよと。
本当はルターは教皇に手紙を送っただけみたいですけれども、ちょっと脚色されて打ち付けてやったみたいな形になっているようです。
これを友達がバズらせるんですね。活版印刷でバズらせに行くんですよ。
みんな読めという形で。
活版印刷がヨーロッパの方に伝わったのが100年行かないくらい前です。なので、そこでバズって行く。それでいっぱい刷られて色々なところに散って行くんですね。
「カトリックってちょっとおかしくない?」「腐敗してない?」みたいな感じで、みんなが思ったところに、ルターが聖書をドイツ語に訳してブワッと広げるんですよ。
今まではラテン語だったし、手書きで書いてたから高価で読めなかったんですね。
誰も読めなかったし、誰も持っていなかったものが、ドイツ語だし読める訳ですね。
その当時、識字率は10%ぐらいとか言われていたみたいですけど、みんなが読んでですね、「あれ? なんか違くね?」みたいな感じになる。
読めない人に対しては読み聞かせをしてくれたみたいです。
それでカトリックって変だよねみたいなことからプロテスタントが出来上がっていくんですね。
でもカトリックはヨーロッパ中を支配していたんですね。ある意味。国をまたいで影響力あったので、カトリックの教えからプロテスタントに移るには、やっぱりなかなかいけないんですよ。
火あぶりの刑とかになったりするからね。宗教をやめたり別のものを信じたりすると。
なのでいろいろあったんですよね。その前にもペストがあったりとかね。
神様に祈ってるのにペストにかかるやんけ、みたいな感じで、いろいろな人の不満がかかった時にバチコンと来てバズるということですね。
バズるという言葉はCOTEN RADIOからもらいました。
神の教えの解釈のあり方が変わっていくんですけども、カルヴァンはルターが「95カ条の論題」を出したときに8歳から9歳くらいなんですよ。
こういうカルチャーの中で育って、カトリックの教えを疑って色々考え出したということですね。
その中で「二重予定説」や「職業召命観」ということを言ったということですね。
何でこの話をしようかと思ったかというと、宗教改革の後に名誉革命が起きて、人権の問題が移ってくるんですよ。
宗教革命をしたことによって、王様が力を持つようになるんですね。
今までは教皇がいた。教皇がいて、後は王様とかいっぱいいたんだけど、王様の力はそんなに強くなくて、一番偉いのは教皇だよねみたいな。
キリスト教の教えの教皇が一番偉いよねみたいな感じだったのが、新しいプロテスタントの教えがあって、「教皇よりも武力を持ってる俺たちの方が偉くね?」みたいな感じで、王様がめちゃくちゃ偉くなる。
今度は王様が偉くなった後に「いや、王様やりすぎやんけ」と言って民衆が立ち上がるんですね。
貴族や民衆が立ち上がって王様をやっつけて、議会というのが出来上がる。
その中で人権という概念が生まれてくるんですね。
そういう中で人権という概念が生まれてきて、参政権が出てきて、最初は貴族だけで次は成人男性、そして女性にもという形で人権の概念が広がっていくんです。
だから最初の宗教改革の話をしようかなと思って、この話をしました。
僕らにはなぜ生きている価値があるかというと、人権があるからだよと言うんですけども。
僕らは平等で人権が全てあるからだと言うんですけど、人権を理解するためには、そもそもの人権を手にした、王様と戦ってきた歴史を知らなきゃいけない。
なぜ王様が権力を持つようになったかというと宗教改革があったからですね。
天国に行ける?
カルヴァンは結構ややこしいことを言うんですよね。
カトリックの今までの教えだと、正しいことをすると天国に行けるよ、悪いことをすると地獄に落ちるよ、みたいな話だったんです。
ただ、悔い改めたら天国へ行けるからね、ということで人々を惹きつけた。
死後は天国に行けるようにしよう、今は苦しいかもしれないけど、天国に行けるようにやろうよ、だから信仰しようよという形で広げていったし、みんなの心を救っていたんですね。
でも同時にだんだん腐敗もしていったというのがあって、お金で贖宥状を買うことでその罪を免れるということをやり始めたんです。
これ買ったら天国へ行けるからねみたいなものをカトリック教会がやり始めたんですね。
「それっておかしくね?」と言ったのがルターであって。
そういう流れで聖書を読むと、神様はそもそも偉大だから人間目線で良いこととか、人間目線で悪いことなんて、些細な問題に過ぎないし、人間が良いことをしたから天国に行かせてもらうというのは浅はかじゃね?みたいなことを言うんですよね。
じゃあ悪い人は天国へ行けないなんて、神様はそんなに器が小さいのか。
正しいとか悪いってそもそも良くわからないし、考えれば考えるほどわからないものなのに、神様がどういう基準でそれをいいとか悪いとか考えてるのかをたぶん僕らでさえわからないことなのに、神様が考えることは絶対想像つかないよね。
僕らよりももっと深い水準で考えているんだから、神様にとってみたらこの行為が良いか悪いかなんて僕ら基準ではわからないよね、みたいなことを言うんですね。
だから関係ないんじゃないみたいなことをカルヴァンが言って。
恐らくでも神様というのは、聖書を読めば読むほどもうすでに決めているんだよ。
もうスケジュール通りやることを決めているから、たぶん救うべき人間と救わない人間というのは決めているはずだろう。
だから生きている間に何をしても別にもう決まっているんじゃないかと言ったんです。
だから予定説。
二重予定説というのは、二重とは何かというと、救う人がいる、地獄に落ちる人がいる。
2つのタイプはもう既に決まっている。だから二重の予定があるということなんですね。
全員が天国に行けるかというわけではなくて、やはり聖書には地獄というものを書いているから、地獄に行く人はいるんだろうと。
だけど、それらは僕らの判断じゃわからないよねみたいなことを言ったというのがありますね。
「職業召命観」というのは何かというと、でもめっちゃ真面目に働いている人はたぶん天国へ行けるんじゃね?みたいな話をしたんですよね。
神様に祈るだけ、教会できちんと祈ること、教会で働くことだけが神様に対して祈ることなのかねと。
仕事は神様が与えてくれたものだよね。
恐らく我々は好きでやっているように見えるけれども、神様が決めてくれたことだし、嫌々やっているように見えるかもしれないけれど、神様が僕らに与えてくれたものだよね。
仕事というのは苦しいものだけど、喜びも与えてくれているし、生きるためにやらせてくれた。
神様はメチャ深いことを考えているから訳あってこの仕事を僕らにくれてるよね、ということを言うんですよね。
神様がくれた仕事なんだから、それを一生懸命やるということは全然いいことじゃない?と言うわけですよ。
知らないけどとりあえず仕事は真面目にやってるし、頑張ってるなと、頑張って仕事をしているし、やれているってことは恐らく神様は僕のことを天国側の人間と思ってるんじゃないかと考えるんですよね。
わからないですよ。わからないけれども、神様が与えてくれた仕事を僕はちゃんとやれてるってことは、天国へ行ける側の人間なんじゃないかな、みたいなことを言うんですよね。
だから頑張ったら?という話なんですよね。
最初に聞くとよくわからないんだけれども、この予定説を心の隅に置いておくと、ある瞬間「ああ、そういうことなのかな」とわかってくる概念ですよね。
最初のキリストの教えだと仕事は罪なものだし、仕事をしたりお金を稼ぐことに頑張ることはあまり良いことじゃないよね、みたいなことをイエスの時代では言うんだけれども、時代が変わるにつれて変わってきているということですね。
働いていて良いんだ
当時の人たち、ルネサンスの洗礼を受けた人たちにとっては、やはりこういう概念、仕事を一生懸命頑張る、贅沢をせずに今の自分が与えられた役割をしっかりやっていくことが尊いものだと思っていたし、その時の世俗の価値観ともマッチしていたというか、うまく言語化してくれたということで、負い目があったんだろうね。
神様のことせずに今の仕事頑張っててなんか俺ってダメなのかな、とか思っていたんだけれども、いやいやそうじゃないよ、というのが良かったという感じですよね。
田舎のお父さんとお母さんを捨てて、農家をせずに東京で一生懸命働いているけれど、でも本当は親父たちは農家を継いでほしかったんじゃないかなとか。
俺は東京で成功して金は稼いでるかもしれないけども、田舎を捨ててきたじゃないかとか負い目があるところに、いやいやメチャ喜んでるよ、みたいな。
農家継いでもらうよりもお前がこっちで成功してくれる方が鼻が高いんだよ、と両親が言ってくれたらメチャ嬉しいじゃないですか。そんな感じだよね。
カルヴァンが言ってくれたことで、みんな俄然「ああ、俺めっちゃ働いてていいんだ」みたいな感じで、王様とか貴族とか職業を一生懸命やってる人、ビジネスマンもこれ信じようみたいな。
カトリックの金儲けしている奴らよりこっちの方が信じられるわ、みたいな感じで、カルヴァンの概念が流行ったという感じです。
ざっくり言うとね。本当はもっと違いますよ。でもわかりやすく言うとそういうことです。ちょこちょこ嘘が入ってますけど。
もちろんこんな単純な話じゃないですけど、まあでもイメージはこんな感じですね。
何に価値があるのかはわからない
これを僕らの生活に活かすなら、働いているというのは価値があるとか働いていないのは無価値だとみんな思うんだけども、おそらくそんな浅はかなことじゃないよねと。
何が価値があって、何が価値がないのかなんて、俯瞰的に見たら、10年後、20年後、100年後を見たら誰にも分からないわけですよね。
子供だったら勉強している子がいいんだよとか、勉強せずに遊んでいる子はダメなんだと教わっているんだけど、今考えてみれば、勉強してちょっとランクのいい大学行くよりも、自分の好きなことをやってスキルを伸ばした方が幸福度も高いし、仕事に活きるよねみたいなね。
勉強だけしてるよりも好きなことをやり続けたほうが、YouTubeとかで副業で稼げているよねみたいな。
何が価値か本当はわからない。
結局大きな目で見たら何が価値を生むかなんてわからないんですよね。
一見、仕事じゃなくてただクレームを言っているだけのように見えるかもしれないけど、そのクレームが来て新しい発見があるかもしれない。
このYouTubeのことだって僕が価値を生んでいるように見えるかもしれないけれども、そもそも見てくれる人がいるから、僕もやっているわけだし、見てくれる人がいなかったらやらないわけだからね。
だから見てくれている人のおかげなんですよね。
なんか面白いんですよね。
見てくれている人がこの動画はいいよという数字を受けて僕も反映して動画を撮ったりしているので、みんなでやっているんだよね。
だから価値を生んでいるのはみんなで価値を生んでいるものだから、僕一人で価値を生んでいるわけではない。
結構ここら辺は面白い。
かといってYouTubeの広告収入をもらっているのは僕らじゃないですか。
だから申し訳ないと言うかアレですけれども。
俯瞰的に見たら何が価値を生むかはわからないですね。
現代的な部分だけ、何が価値を生むか分からないよね、だけを聞くとなんとなくよくわからないし、偽善的にも聞こえるし、魂が震えないんですけども、でもこういう風に考えるようになった。
人々に全て人権があるよとか、働いていない人も人権があるよとか、その背景にはやっぱりこれがあったんだよね。
これがあった上で、複雑なディスカッションの後でこういうのが出てきたということですよね。
そういうのがわかると面白いんじゃないかなと思います。
神様を僕らはもう信じられなくなっているかもしれないけども、かつて人々は苦しみがあって、病気があって、死があって、理不尽な差別、理不尽な階級社会、暴力があったんですよね。
弱い人は守られなかった。
盗賊とか来て殺されてしまうこともあるわけですよね。今みたいに警察が守ってくれるとか、ニュースで報道されるとか、そういうこともなかったわけで。
そういう中でどう生きたらいいのかを悩み続けて、神という存在を見出し、そしていろいろなことを考えてきた背景があるんですね。
僕らもそういうエッセンスを理解して、自分たちに応用することができれば、僕らが今抱えている苦しみ、悩みというものの助けになるというか、楽になるんじゃないかなと思います。
決してね、昔の人は苦しくて、今の僕らは病気の人だって飯食えるんだからいいじゃないかとか、そういうことは僕は思っていませんね。
質は違えど同じような苦しみを僕らは抱えていると思いますね。
それはかつての答えというのが現代ではそのままでは活きないので、何かしらのアレンジが必要だったりするということですね。
今回はカルヴァンのお話をしました。
古典
2023.6.23