本日は「集団自殺と心中」というテーマでお話ししようと思います。
毎週日曜日は「死」ですね、人生の終わり、人生のひと区切りである死について語る、「死」を中心に動画を撮っているんですけども、今回は集団自殺や心中をテーマにお話ししようと思います。
自殺というのは、本質的には一人で行うものなんですけども、本質的というか一人で行うことが多いんですけれど、時に同時に複数の人間で行うことがあるんですね。
そういうものを集団自殺とか一家心中、心中と言ったりします。
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ハードルは下がるのか?
これは結構危険なんですよね。
それはなぜかというと、一人でやる時よりもハードルが下がってしまうからなんですよね。
自殺とか死の恐怖というのは何かというと、孤独になってしまう恐怖なんですよ。
だけど、複数の人間でやることで孤独感が紛れてしまう。
恐怖心も抑えられてしまう。
あとは自殺は一回でうまくいく人は少なくて、やはり何度もやる。
最初は恐怖心があるからうまくいかないんですよね。
だけど、何度も繰り返すと慣れていって恐怖心を克服して、悪い意味でね、そういうことに至ってしまうのですが、集団でやると慣れやすいんですよ。
慣れやすいというか慣れている人がいたりすると、慣れる必要がないということですよね。
あと、他の人がやっているのを見て、観察したことによって学んでやりやすい。
こうやったらいけるんだみたいに思っちゃう。
後は同調してしまうんですよね。同調して判断力が低下するんですよ。
行け行けとなっちゃってストッパーになれないんですよね。
集団でいたら誰かストッパーになれるだろうと思うかもしれないんですけれども、そうじゃないんですよね。
集団だからこそ、ストッパーがうまく効かなくなって、どんどん進んでしまう。
狂気の方に向かうことはあるわけですよね。
それは何て言うかポピュラリズムというか、歴史上も色々ありますよね。
旧日本軍のこととかナチスの話とかもね。そういう話です。
だから集団であるということは、必ずしも理性的なわけではなくて、時に集団の狂気があります。
集団の狂気に巻き込まれて、一人の時だったら抑えられた人が抑えられなくなることがあるんですよね。
現実の中でやっぱり最近多いのはネット自殺ですね。
掲示板や匿名のSNSで「一緒に死のうよ」と募集をかけてしまう。
そしてそこには促す人がいるんですよね。マインドコントロール役がいるんですよ。
やった方がいいよねとか、君たちはそれがいいんだよとか、そういう促す人もいたりして、とても危険ですね。
だから断固としてこういうものは無くしていかなきゃいけない。犯罪ですから。自殺幇助として。
こういう情報はできるだけなくす。こういうサイトをなくしていく努力が必要ですね。
同時に、こういう危険性があるんだよということは、僕ら大人たちは知っていく必要があるんですよね。
怖いからとか危険だから喋らないとか、目に触れないようにさせる、だとうまくいかないんですよ。
僕らがちゃんと知る、知った上で対策するということが重要なので、今みたいに動画を撮っているという感じです。
日本の歴史
集団自殺の話というのは結構難しいというか根深くて、なぜかというと日本の歴史の中にも深く絡んでいる。
そしてある種素晴らしいもの、美的なものとして語られてきたという歴史、文化的な背景もあるからなんですね。
キリスト教では自殺は禁止されているんですけれども、日本の場合は仏教とか儒教では明確に自殺ということを禁止していないそうです。
そういうものがなかったりするんですね。
なので宗教で縛れていないという問題があったりする。
実際は、自殺をしてはいけない、集団心中はいけない、切腹はいけないという法律は何度も何度も出ているんですけど、日本で歴史の中でも。
なかなかカルチャーの中では浸透しきれなかったり、禁止し切れなかったというのがあったようです。
例えば日本の仏教の中には、密教と呼ばれる分野があります。
そこでは「即神仏」というカルチャーがあるんですよ。
僧侶の人がミイラ化していって、そのミイラを崇めるというやつです。
ミイラ化していくためには、自分で餓死をするようにしていくことが必要で、特殊なやり方が必要なんですよ。
ガリガリに痩せていって、脂肪を減らしていって最後にミイラになるというやつです。
しかもそれが尊敬を集めたり、国の災害を減らすために即神仏になるみたいなカルチャーがあったので、これも死ですね、自殺というものを賛美しているカルチャーであったりします。
武士の時代に移ってくるとですね。武士の世界では切腹ですね。
切腹を「名誉ある死」と捉えられるようになっていった背景があります。
自分で腹を割くことをすることで、一族の罪は問わないでくれよと。
自分で終わりにしてくれよという形です。
武士同士の争いですから、殺した殺されたのやりとりをすると、恨み合いが終わらなくなってしまうんですよね。だからその恨みっていうものを止めるためにもある意味、リーダーが自分で幕を引く。
ここで終わらそうよと腹を割くということがあります。
そしてそれが名誉ある死という風に、カルチャーの中で残っていったということですねで。
江戸時代では歌舞伎の中では「心中物」が流行るんですね。
江戸時代はガチガチの身分社会で封建社会ですから、個人の自由はないわけですよ。
そういう中で本来だったら結婚できない二人が、一緒にいるために一緒に死のうということをするわけですね。
それは心中ものとして、歌舞伎とか演劇の中で美化されたというのが背景です。
だから、宗教的に縛れなかったので、そういうカルチャーが育ってきたというのが背景としてあります。
日本はちょっと特殊だったりしますね。
社会との無言の交流
心中を「社会との無言の交流」と言っていますね。
社会に対して訴えかけるではなくて、言葉を通じて社会と交流するのではなくて、もう死んで見せているだけというか、無言の圧力を与えていると言えます。
死んだ人に対して僕らはやっぱり否定しがたいんだよね。
なかなか言えないですよね、「お前死んで逃げるなよ」みたいな感じは言いにくいんですよね。
だから否定しがたいということですよね。
でもやっぱりそれはずるいよねとか、そんなのってないんじゃないかと思って怒るとか、そういう部分は僕らにはあるし、きれい事では済まないですよね。
でも、どういう風に残された人たちの怒りを言語化したらいいのかわからないですよね。
ただ怒っていれば、亡くなった人を辱めるというか、貶めることにもなる。
そうせざるを得なかった背景というのもあるだろうし、カルチャーの問題もあるだろうし、相手が思っている価値観やカルチャーを無下にはできないわけだし、本当に僕らは答えをまだ知らないなと思います。
これは過去のものなんだと分けてしまうことで、否定することはできるんですけども、そうではなくて、流れの中で理解していくことが重要だし、そうしなかったら相手を理解することにならないんですね。
僕らから見れば、ただのこういう問題だったりしても、その当事者の人たちにとっては死への憧れというか、文化的な背景があるかもしれないわけで、ここの世界に染まっている人たちを我々の方に連れてくるためには、やはり相手のカルチャーをしっかり理解した上で、きちんと答えを出してあげる必要があります。
弱っている人たちに、自分たちで答えを見つけろよと突き放すだけではやはりうまくいかないので、僕らは僕らで答えを見つけていくということはとても重要だったりします。
毎週日曜日の僕らのやりとりも、どこか答えを見つけていく作業になればいいんじゃないかなと思っています。
今回は、集団自殺と心中というテーマで動画を撮りました。
死について
2023.6.25