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人生は苦しみか? 東洋vs西洋

00:00 OP
02:29 死は悪いものなのか?
06:40 精神科医はどう答えるか
07:49 家族はどう言うか
12:08 命は誰のもの?

本日は「人生は苦しみか? 東洋vs西洋」というテーマでお話ししようと思います。

東洋的な考え方、いわゆる仏教の影響を受けていると、人生というのは苦しみの連続である、そもそも人生というのはそんなにいいもんでないよと考えるんですね。

一方で、西洋、主にキリスト教の考え方をすると、そもそも僕らというのは神からの愛を受けていて、人生というのは悪いものではない。もちろん、原罪としての労働はあるかもしれないけれど、神様はしっかり僕らのことを愛してくれているし、いいもんだよと考えて、しっかり信仰があれば死後も救われると考えているわけです。

これは結構違うんですよね。根本から人生はネガティブなものだと思う東洋的な思想と、いやいや、ポジティブだけれども悪いところもあるよね、みたいな西洋的な思想は逆になったりします。

日本人というのは、東洋的な思想、仏教の影響を受けて、明治以降無理やり西洋化していっている民族なんですけど、やっぱり奥底に流れる東洋観があって、でも西洋にかぶれているところもあって、どういう風に人生を捉えたらいいのか、死をどう捉えたらいいのかというのがわからないのではないかという気がします。

わからないまま富国強兵の時代になって軍に支配されて、日本軍という帝国主義の価値観に染まり、その後敗戦後には働け働けみたいな感じで拝金主義的な世界観に染まり、そして現代、どうしたらいいかよくわからないというか、そういう状況なんだろうなと僕の歴史観としては思ったりしています。

これはあくまで益田の意見なので半分聞き流していいと思うんですけども。でも、一つの考え方なので、参考にしてもらえればと思いますね。

死は悪いものなのか?

死というのはそもそも悪なのでしょうかということですよね。

本能的には死を恐れます。怖いですよね。
死を怖いと思わない子供や赤ん坊がいたら、それはやはり何かしら障害を疑ったりしますよね。
大人になっても僕らは死に対する恐怖感は絶対あると思います。

死に対する恐怖感がないなんていうのは嘘ですね。それは本能的にインプットされているものなので怖いんです。
その怖さを日本人の文脈だと穢れと言ったりします。
穢れがあるから近づいちゃいけないとかそういう言い方をしたりします。

あとは死や命を語っては不謹慎だみたいな、こういったものの考え方もあります。
穢れてしまう、だからあまり扱ってはいけない、神聖なものだから扱ってはいけない、近づいてはいけないもの、と思ったりすることもある。

あとは「死ぬ」とか「死にたい」とか言うのは中2だと言ってね、思春期だ、ナイーブだろうみたいな形で否定するものもあったりします。
センシティブすぎるみたいな感じで言われることもあるかなと思います。

でもまあ、一つの考え方としては、生はそもそも良いものじゃないよねという考えですよね。
何で生きているんですかみたいな。
いや、確かに本能的には怖いけど、生きているのだってそんなにいいもんじゃないですね、苦しいじゃないですか。
四苦八苦って知ってますか?お釈迦様は四苦八苦と言いましたよと。
そもそも世の中、永遠に続くもんなんかないと言いますよね。だから一生懸命やってることだって無常じゃないですか。
一生懸命働いたって会社はいつかつぶれるし、一生懸命働いて残したものだって、永遠に評価され続ける芸術作品もなければ文学だってないわけですよね。
源氏物語は残っていますけど、読んだことあるんですかってね。無常じゃないですかとか。
僕らが今聴いている音楽、コンテンツ、芸術作品は、残るかもしれないけど、誰も楽しまないかもしれませんよとか。
そういう無常はあると思うんですね。
無常なんだからそもそも生なんて価値がないんじゃないですかということです。

苦しいことは多いし、無常なんだから生は良いもんじゃないという風に考えると、命には価値がないと思いたいんですよね。
命には価値がないということで、相対的に死の価値が上がるんですよ。
ならば、死も悪いものではないのかもしれないなということですよね。

命の価値が高ければ高いほど死ぬことは怖いわけですね。失いたくないから。
でも、命の価値がなければ、命を失うこともさほど怖くないわけですよ。

だからなんていうのかな、一千万円する高級車のドアに傷が入るのと、中古の10万円くらいで買える車のドアに傷が入るのでは全然意味が違いますよね。
命というのは一千万円の車ではなく10万円で買った中古の車なんだと思うと死を恐れずに済むわけです。

それは東洋的で仏教的な考え方だから、命には執着しちゃいけないという風に教えるというやり方ですよね。
大乗仏教というよりはブッダの最初の原始仏教の教えに近いですけども。

精神科医はどう答えるか

僕ら精神科医はこういう問答に対してどう答えているのかというと、苦しみは永遠には続かないよね。治療をすれば、今の苦しみは取れるから。確かにうつは半年くらい続くこともあるけれど、とにかくちょっとうつが良くなるまで我慢しようよとか、双極も良くなっていくからちょっと待ってよと言ったりします。

あとは死は無責任じゃないかというのは言わないけれど、それも一つの考え方ですよね。
死ぬことによって他の人がダメージを負ったり、苦しい思いをしたりするわけで、それって無責任なんじゃないのかとか。
あと苦しんでるのはあなたのせいじゃなくて病気だったり、パワハラをしてきた上司だったり、家族がいじめてきたからで、それのトラウマに苦しんでいるからであって、それはあなたのせいじゃない。悔しくないのか、みたいな考え方もあるのかなと思います。
言わないんですけどね。
そういう言い方をしないけれど、内容としてはそういう形で踏みとどまろうということを言います。

家族はどう言うか

実際、患者さんたちが自殺で亡くなってしまった場合、年老いた家族はどう言うかというと、例えば「苦しんでいましたし」「自己責任ですよね」「あの子ももういい大人でしたから自己責任ですよね」「先生は悪くないですよね」「あの子は社会に対して甘えてるんですよ」みたいな言い方をしたりします。

子供がまだ中学生とか小学生の場合だったら、「小さい子供が自殺を選ぶなんて何なんだ」「それはどういう状況だったんですか。いじめがあったんでしょうか」とか言って憤慨する親もたくさんいるんじゃないかなと思います。
そうだろうなと思いますね。

「甘えてます、自己責任ですよね」と年老いた親がなぜこう言うのかというと、そもそも世の中は無常だし苦しいものだって皆わかっているのにもかかわらず、死を選ぶというのは他の人に迷惑かかるでしょう、みたいなことですよね。

人生というのは苦しいもので皆我慢しているのに、お前は我慢しないのは甘えているんだというロジックですよね。
結果的に他の人が困るじゃないかというロジックなのですよね。無責任じゃないかと。
なるほどなと思いますね。

日本ではよくある典型的なロジックだろうなと思います。
まあでも本人はそれだけ苦しかったんじゃないかという言い方もできるし、共同体、周りの人が助けてくれなかったから、苦しんでいるのにもかかわらず、苦しい思いまでして周りに気を遣わなきゃいけないんだという意見もあったりしますよね。

小さな子供が自殺を選ぶなんてというのは、結局、可能性を失ってしまう、人生というのはいいもので、これからいい出会いとか楽しいことがいっぱいあるはずなのに、それを選べなかったということが背景にあるのかなと思います。

今は苦しいかもしれないけど、後から楽になって楽しいがこといっぱいあるのに、なんで我慢できなかった、なぜ救えなかったんだろう、そこの部分を回避できなかったんだろうという考えですよね。

人生というのはそもそも良い可能性に満ちている。
人生というのはポジティブなものだという考え方ですよね。
小さな子供にとっては人生とは良いものだみたいな感じで、そもそも良いものではないみたいな考え方にはならないんですよね。
だから何かちょっとグチャッとしている。

こっちは人生というのは良いものじゃないのに、良いものじゃないということを受け入れていないことに対する怒りだったりするし、こっちは人生に対して良いものなのに、それを享受できないなんてもったいないという考え方ですよね。

例えば、人生が本当に悪いものだと皆が思っているのであれば、まだ自我が芽生えてない子供のうちとか、まだ意識のない受精卵のうちに命を落としてしまった方が楽なわけですね。しがらみが少ないからね。
仏教の教えをラジカルに考えると。だけどそうはならないですね。

結局まあいろいろ思うんですけど、亡くなった人たちがどこまで理解しているのかということの怒りだったり、検討というのがとても重要なんだろうなと思います。

人生というのは本当に苦しいとわかっているのかとか、その苦しみが永遠に続くもんじゃないとわかっているのか。
それがわかっているのであればと思うけど、わからずにやっているんじゃないかということで、周りが怒ったり悲しんだりしているということですよね。

命は誰のもの?

あとは命は個人のものなのか、それとも共同体のものなのかということですよね。
現代人にとっては命というのは個人のものだと考えますけど、ちょっと昔になれば命というのは個人のものじゃないんですよ。
家族のものであったり、国家のものなんですよね。
もっと昔になれば神様のものなんですよ。

だから人間の命というのは自分が所有しているものではないんですよね。
だけど、だんだん個人主義になっていますから、命は個人のものと移ってきているけれど、でもまだまだ移行しきれていないというのはありますよね。

でも、完全に個人のものだという考え方になることはないと思います。
人間が群れの動物である限り、個人の好きにやっていいでしょということにならないと思います。

人間の社会の中でも個人主義の人はいますよ。
群れに属さずに群れと群れのハブになるような存在。昔で言う旅人みたいな人たちはいるわけで、村と村を移動していくような。
ムーミン谷で言うところのスナフキンみたいな人であれば個人のものというふうに思うかもしれないけれど、やはり村で生きている、共同体の中で生きている僕らにとっては、命というのは共同体のものという感覚を捨てきれないんじゃないかなと思います。

もちろん、精神科の患者さんには発達障害の人も多いし、時代が時代だったら旅人になっていた人も多いと思います。ADHDの人たちとか。
実際に過酷な状況とか、過酷なマラソンとか好きな人が多いですから、なんていうかな。個人主義というか、命は個人のものだと思う人が多いんですけど。

今回は、人生は苦しみか?東洋vs西洋として、仏教的な価値観から見ると、命は価値がないから、死も悪いもんじゃないみたいな形で死の恐怖を和らげてきたという歴史があるという話をしました。
別に死を肯定してるわけじゃないないですよ、もちろん。
多角的に物事を考える必要があるので、穢れとして避けるのではなくこういう考え方も理解してもらうといいんじゃないかなと思いお話ししました。


2023.8.6

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