本日は「芸能人の自殺は報道すべきではない、いや違う」というテーマでお話しします。
芸能人の自殺をメディアが扱うべきか否か、YouTuberが扱うべきか否か、ということをディスカッションしてみたいなと思い、この動画を撮ります。
芸能人というのはどういう存在かということから話をして、その後にすべき派の意見とすべきではない派の意見をざっくりまとめます。
そして最後に、この議論を超えてどういうことを学んでもらいたいのか、知ってもらいたいのかをお話しします。
芸能人とは
まず、芸能人というのはどういう存在なのか、ということをお話しします。
芸能人は、やはり雇用が不安定な存在です。
お金が飛び交うので、会社員よりもしっかり守られているような感じとか、そういう印象を持つ人もいるかもしれないですね。
会社員よりも立派な上司に囲まれてる、サポートしてくれる人がいる、という風に思う方も多いかもしれないですが、全然そんなことはなくて、中小企業に結構に似ています。
中小企業以下と言ったら失礼かもしれないけど、でも本当にそんな感じでです。
決して雇用が安定しているわけではないし、道徳観や倫理観、法の整備もしっかりされているわけじゃないです。
その一方で多額のお金が飛び交う。子供とか若い子達にもお金が回ったりするので、結構グチャグチャになりがちです。
大きなお金が動くので、人々の欲望をかき立ててトラブルも起きがちという感じです。
あと学びですね。
学びが意外としっかりと機能してないんですよ。
師弟制度がしっかりあるわけじゃないので、正しく育ててもらえていない人たちも結構多いです。
そもそもの学歴がしっかりなかったり、家庭環境が悪い人たちも多いんです。
なのでしっかりしつけられていない子供も多かったりして、そのまま大人になっている人たちも多いので、そういう人たちが集まって、また組織を作ったり、ルールを作ったりするから結構ストレスフルな環境なんです。
東京で僕は精神科医をやるようになって、臨床していく中で芸能人や芸能関係の人を患者さんで診ることになって知るのですが、最初はちょっとミーハーなところもありました。
僕は田舎出身だし「テレビで見た人だ」みたいなものがありましたが、今はそういう感じというよりは「大変だな」というか「不安定なところで働いている人たちだな」という風に思います。
そして僕らと言うとアレかもしれないですが、まあ僕らですよね、みたいに学びがしっかりあるわけでもなく、学問によって助けてもらったという経験も少なく、そして師弟関係というのも弱いところが多いです。
お笑い芸人さんも、やはり今は師弟関係が落語家みたいにあるわけでもないし、その落語家の師弟制度もパワハラがあったり、本当の意味で僕らの医局みたいな師弟関係じゃないですよね。
僕は本当に松崎先生にいつも感謝してるんですが、医局も違うのに本当に感謝しているんですけど、やはり医師の感じ、医師の仲間は師弟関係が何かちょっとあるんです。
渥美先生も先輩ですし、どこか後輩だから助けてやろう、教えてあげよう、みたいな緩やかな輪があります。
それは芸人さんとかにもあるのかもしれないですが、でもアイドルの世界にはあまりなかったり、俳優の世界にもあるけど、ちょっと弱かったり、何か思います。
そういう意味で守られているのがあるんですが、彼らにはないなと思います。
ベースの守ってくれるものも少ないから、すごく不安定になって、やはり死が身近にあること、死やうつが身近にあるというのは否定しがたいなとは思います。
社会的影響力がすごく強いんですよ、彼らは。
社会的影響力が強くて、そして大衆によって消費されているような存在です。
時分の花と書いていますが、若さやそういう時の魅力を存分に引き出して、そこから利益を得ている部分もあるし、自分が利益を得ている部分もあるんだけど、一方で誰かによって消費されている、自分たちの心身を削られているという感じはあります。
結局、メディアって何かというと欲望の体現なんです。
自分は日頃は上手くいかない、鬱憤がある、正しいことができていない、と思うと、ヒーロー映画を見るわけです。
そして、ヒーローが活躍し、悪を倒している姿を見て心が晴れる。
自分が日常で満たされない欲望が映画とかフィクションの世界で満たされる。
そのフィクションを俳優さんが演じることもあれば、YouTuberのようにリアリティー・ショーによってエンタメ化される、コンテンツ化していることもあったりします。
ヒーロー以外もそうです。美人になる、モデルになる、美しいものを着る、美しいものを買う、美味しいものを食べる、大食いをする、不倫をする、不倫ドラマを観る、何でもそうですが、そういうものを体現している。
体現すればするほどコンテンツとして魅力があるし、僕らの欲望のカタストロフィーになります。
普段、日常で抑圧している大衆の欲望をカタストロフィーしていくというところもあります。
だから芸能人は政治批判をするわけです、政治家が悪い、と。
それはなぜかというと、僕ら大衆というのは政治家に対する不満を常に持っているからです。
それを言ってもらうというのがガス抜きにもなったりするということだったりもしますね。
もう一個、そういうことをする時に良い言い訳があるんです。
芸術のためならば許されるという都合のいい言葉です。
それはまあ便利です。
出版社の人が、芸術のためだったら、君は自分の命を削ってでも作品を作るべきだとはあまり言わないです、直接的には言わないけど、大衆が、芸術のためだったら頑張るべきだ、芸術のためだったら女房も捨てるみたいな、芸のためなら女房も捨てるみたいなところもある種肯定する、そういう言説があれば自分たちにとって都合がいいわけです。
大衆にとっても、芸能人を使ってコンテンツを作って売り上げを出す人にとっても都合がいいので、そういう「芸術のためならば」という都合のいい言葉というのは、ある意味普及しているという感じです。
この言葉にやはり若い人たちというのは支配されやすいですよね。
それはよく思います。
美大の人たちとか苦しそうだなと思います。
大人から見ると、それは方便であるということもわかるのですが、そこに支配されすぎちゃう。
斜めから見ることができないということも結構あるなと思います。
芸のためなら死も厭わないみたいな感じで、起きちゃうということですよね。
報道すべきか
じゃあ芸能人の自殺は報道すべきかすべきでないか、ということをディスカッションしていきましょう。
まず、すべきだと考える人たちの意見としては、まず知る権利です。
僕らは知る権利があるわけですよ。隠蔽されたくない。
反対に「いや、個人情報だろ」というわけです、すべきでないというのは。
知られたくないという権利もあるわけです。
僕らは知る権利がある一方で、知られたくない権利もあるわけだから配慮すべきなんだ。
自殺は家族には知られたくないという人たちもいるわけだし、騒がれたくない。
生きているうちもコンテンツとして消費されたのに、死後も消費されたくないという思いはあるわけです。
と言いつつ「いやいや、お前たちは社会的影響力あるだろう。だから生前に社会的影響力を利用して、自分は旨味を吸ってきた。甘い汁を吸ってきた部分もあるんだから、その社会的影響力を考えれば、それはある種の個人の権利は制約されるべきだろう。例えば、政治家の人たちは制約されてるじゃないか。公人というのは制約されるんだ」ということです。
社会的影響力のある人というのは、個人の権利というのが制約されても仕方がないという社会的な、歴史的な背景もありますから、そうなんじゃないかといいます。
でもすべきじゃないという人から見ると「そうは言っても、じゃあ、社会的影響力というのであれば、自殺のことを報道していくということは、ウェルテル効果を引き起こす」と。
「死を語ることによって自殺者が増えるの知っていますか?」とか「自殺を美的に捉える人たちもいますよ。良いきっかけだと思って自殺する人もいるんだから、知ることによって啓蒙する、啓発していくという良い影響力じゃなくて悪い影響力だってあるんだよ」と言いますよね。
と言いつつ、すべきはの人は学びの機会なんだと言います。
それも含めて学びなんじゃないか、と。
ウェルテル効果があることも全て含めて学びなんじゃないか、と。
社会は色々なことを知っていく必要がある。
知るべきじゃないと抑圧していくのは中世ヨーロッパに戻るんですか、と。
キリスト教が支配していた歴史時代に戻るんですか。僕らは暗黒時代にもう一回戻るんですか?
みたいな言い方をするわけです。
都合の良いことを、芸能人の華やかなとき、華やかなものだけを伝えられて、芸能人が持つ負の側面、弱さの部分、苦しみの部分を知れないというのは逆に良くないんじゃないの、という風な言い方をします。
でも、尊厳の問題があるわけです。
いやいや、嫌な部分を見せたくないでしょう。
それは尊厳に関わるでしょう、ということだったりします。
結局はお前たちは都合の良いこと言ってるけど、メディアの利益を目指してるんじゃないか。
益田だって再生回数稼いで広告費を稼ぎたいだけじゃないか、という風に言いますよね。
だけど「いやいや、公益ですよ。だからお金は稼ぐかもしれないけど、それは次の取材のためでもあるわけだし、次のニュースを報道するためでもあるし、稼ぐ時に稼いでおかないと上手く行かないんですよ、そもそも会社というのは。利益が出る時に出さないといけないわけで。
毎回毎回、確実に利益が保証されているもんじゃないですよね。漁師さんもそうだし何だってそうですよ。仕事というのは稼げる時に稼いどく、そして稼げない時は稼いでいた時の蓄えを使って、その場をしのぐということをするわけですね。常に稼げるわけじゃない。どんな企業も。稼げる時に稼ぐべきだろう。それが結局公益なんだ」という意見になったりします。
こういうディスカッションが色々あるかなと思います。
でも結論を言うと止められないですね。
歴史上、止められたことはないので、キリスト教が強い時は止められてましたけれど、基本的には民主主義の上では止められないので、ガイドラインに沿って知りたいという欲望や、議論をしたい、議論をすべきだというものを、ガス抜きしていくということなんだろうなということに結論としてはなります。
■命は個人の所有物ではない
でもこのディスカッションを経て学ぶべきことは、すべきではないという話ではなく、僕らが本当に真に知るべきことは、命というのは個人の所有物ではないということなんだよね。
結局、人権というのもあるんだけど、命とか自分の生活、自分の命というのは自分のためのものであるという考え方というのは、比較的最近のものなんです。
そもそも僕らの命というのは、昔は神様が持っていたものだったわけだし、そのうち国家のものだったりとか、色々するわけです。
近年では個人の自由とか個人の権利が強く主張されているけれど、そもそもはそうでなかったんです。
人間を動物として捉えた時に、人間個人の命というのは個人のものではなく、群れ全体で共有されている部分もあるわけです。
僕らはどんな人にも価値があるというように、どんな人にも責任があって、自分の命というのは自分だけのものじゃないんです。
命は不思議なんですよね。
僕の人生というのは僕だけのものでもあるんだけれど、一方で僕だけのものじゃない。
僕の家族だけのものでもなく、僕は今はYouTubeもやっているからというのもあるけど、公のものでもあるし、そもそも僕は自衛隊で育ててもらったという背景があって、国民の税金で僕は育ててもらったので、医学は色々な人の協力があって教えてもらえている。患者さんとの治療体験、それは全て成功してたわけじゃないですよ、120%自分が成功したとは思えません。患者さんから教わったんですよね。
時には僕は良い医者ではなかったですよ、若い時は特に。
今だって良い医者ではないかもしれないけれど、患者さんとやってきて患者さんから教わったことはたくさんあるんです。
だから育ててもらったというものを社会に還元していかなければいけない。
僕の知識というのは僕だけのものじゃないし、僕だけの成果じゃないんです。そしてそれはみんなもそうなんです。
僕だけじゃない。芸能人だってそうだし、今見ている皆さんもそうなんです。
僕らは社会と繋がっているので、責任もあれば権利もある。
このニュアンスというものをこの議論を通じてしっかり知ってもらいたいと思います。
それが僕の言いたいことだったりします。
報道すべきでないとか、いや違うという議論の水準でとどまるのではなく、もう一歩先に、その背景にある、人間というものは個人のものなのか、そうではなくて社会全体で共有されているものなのかというところまで視野が広がると、良い学びというか良いディスカッションになるんじゃないかなと思います。
ということで、今回は芸能人の自殺は報道すべきではない、いや違う、というテーマでお話ししました。
現代社会
2023.8.12