本日は「倫理を2クール終えて」というテーマでお話ししようと思います。
毎週金曜日は高校の倫理の教科書をベースに、哲学とか倫理の話をしていました。
2クールですね、3ヶ月、3ヶ月の計半年を終えたので、振り返ってみようかなと思います。
何でこの動画を撮ろうかというと、そもそも臨床現場というのは教科書に載りにくいというか、一般論では語りにくいジレンマの問題があるんですね。
ジレンマの問題
例えばこれはリョーハムさんなんですよ。
リョーハムさんと言って一緒に働いている発達障害の当事者の方がいるんです。
ウチのクリニックで働いている人がいるんですけど、YouTubeの会社で働いてくれているんです。
このハムちゃんが、「ハムカー(車)を作って全国を回って自助会のメンバーに会うのが夢ハム」とか言ってたんですね。
「軽自動車か何かを買って、ペンキを塗って、車中泊を繰り返しながら全国を回るハム」とか言ってたんですね。
僕は別にそれを止めたわけじゃなくて、貯金を作って計画を立ててから車を買ったり回ったらいいよと言ったんですよ。
そもそもどれくらいかかるかわからないから、先に買ったり駐車場を借りるところから始めるんじゃなくて、まず全体の予算を組んでからやらないと失敗するよと言ったんですね。
「何でそんなこと言うんですか、益田Dr.は何か否定してるハムか」とか言ってですね、そのやり取りを動画にしたんですよ、面白いから。
そうしたら結構賛否分かれたんですね。コメント欄で。
「個人の自由なので、それに介入するべきではないんじゃないか。益田Dr.は介入し過ぎで、それは不適切なんじゃないか」みたいな意見があったわけです。
なるほどなと思いますね。
でも一方で、「いや、益田Dr.の言う通りで、こんな無計画でやったら絶対失敗するんだから、ハムちゃんは益田Dr.の言うことをちゃんと聞いて計画を立てなさい」みたいなコメントもあったわけです。
実際、臨床というのはここら辺の塩梅がありますね。
つまり、患者さんに対して僕らは個人の自由なので中立であるべきですね。医師や治療者というのは。
彼らの意見を尊重すべきだし、そこに対して主観で自分たちの意見を言ってはいけないわけですよ。
彼らがやりたいことを尊重すべきであるわけですね。
失敗するかもしれないなと思っても尊重しなきゃいけないですね。基本的には。
でもここは結構難しいんですよね。
一方ではやっぱり弱ってる人たちなんだから、もっと応援してほしい。励ましてほしい。優しく接してほしいという支持的介入を望む声もあるわけですね。
「中立である」ということは冷たく見えるんですよ。
よく言われますね「益田Dr.は感情がどこか欠落していて、冷たいように見える」とかそういうコメントが1、2割あります。
「この先生は感情抜きで患者の気持ちとか、そういうのを考えずに淡々と事実を述べてくれるから嬉しい」「聞きやすい」とか、そういうコメントもあります。
別にそんなにドライではないんですけど。
でもこういう支持的介入はしていないので、中立をできるだけやろうとしているから、それは結果的に冷たく見えているのかもしれないなと思いますね。
励ますというのも1つではありますけどね。
一方で、発達の援助というか指導するというのもありますね。
本人がいいと言っててもそれだとうまくいかないわけなので、「それじゃうまくいかないよ」と指導していく。
ちょっと冷たいというか、父親的に接していくことも臨床上必要だったりします。
個人の自由といっても、やはり健常者と病気の人や障害がある人というのは、対等ではあるんだけど、一方で知識とか判断力には差があったりする。
そういう観点からきちんと言うべきことは言う、指導していくことも重要だったりします。
でもこれは本人の葛藤を生んだりするから苦しいわけですよ。
引きこもりの人たちが「今のままでいいんだ」と言った時に、「でもそうじゃないよね」という介入をしていかなきゃいけないんですね。
介入をしていく中で、不快な介入も必要なんですよね。
ひきこもりの人に対して支持的な介入で「今のままでいいよね、君たちも生きている価値があるよね」だけで本当に治療が進むかというとそういうわけじゃない。
やはりどこか発達の援助・指導という要素が必要だし、それは本人の病的ではありながらも、居心地のいい空間に対して葛藤を与えていくという作業で苦しかったりします。
このどこの塩梅を取るかはすごくジレンマです。
一つ一つはどれも正しく、教科書的には正しいんだけれども、じゃあ実際の現場ではどれを取るかはすごく難しい判断です。
これを本人の主観とか医師の価値観だけで決めてはダメなんですよね。
どの塩梅を取るかっていうのは、やはりギリギリまで学問に沿ってやっていかなきゃいけないです。
ギリギリまで学問に沿うというのは何かというと、倫理学や哲学だったりするわけですね。
色々な問題に対して
色々な問題があるわけですよ。
例えば、自殺は身勝手な問題なのかという議論に対して、「いや、私たちはこんなに苦しいsんだから死んでもいいでしょう」と患者さんは言いますね。
そういう議論をふっかけてくるというか、そういう話になったりするわけですよね。
「先生は他人なんだからいいでしょう」とか。
でも自殺というのは誰かに影響を与える行為でもあるわけですよね。
誰かに影響を与える行為だから、一つの面から見ると身勝手な行為だと。そういう風に見えても仕方がないわけですよ。
だけど、その事実をどう共有するかというのはすごく難しいし、その中にはやはり哲学的な理解が必要だったりします。
だから責任というのはどういうものなのかということを、日常語で使われているレベルよりはもっと深いレベルで知る、学んでいく必要がある。
芸能人というのは公人なのかということですね。
芸能人というのは、社会に影響を与える人間ですよね。
彼らのプライバシーはどこまで大衆に知らせるべきなのかというのはあります。
かといって、芸能人も同じ人間だからプライバシーを完全に暴露して良いものでもない。
だけど彼らが犯した問題や彼らの発言というのは、専門家から見て不可解だったり間違っていることがあったら訂正すべきなんですよね。
意見が違うと言って介入していく必要がある。
ここの塩梅もどこまでやるのかというのは難しいですね。
自殺報道もそうですよ。芸能人が自分はうつ病だ発達障害だ双極性障害だと公表して、途中で薬を飲む必要はないんだって言った場合、結果的に自殺してしまった場合、僕らはどこまでその話をするのか、どこまでそれを伝えるべきなのかっていうのは、やはりすごく難しい問題だし、ギリギリまで哲学的に考えていかなきゃいけないものです。
これは単純に答えが出るものではないですね。
あとはジャニーズのジレンマもありますよね。今回のジャニーズ問題に関してもあります。
被害者にとっては徹底的にこの事実を暴露していき、事実をしっかり明らかにしていって、国民の関心を集めていく。そうすることが彼らにとって尊厳を守ることでもあるし、病気の治療にもなる。
でも一方で明らかにしていけば、今活躍している人、トラウマみたいなものを隠したい人にとってはすごく不利益をこうむるわけですよね。
あちらを立てればこちらが立たずというときに、どこに落としどころを置くのかというジレンマはすごく難しいですね。
これはやはり主観で決めるものではなく、ギリギリまで哲学的に倫理的に考えていかなければいけない問題だということです。
答えは出ない部分はあるんですよ。
でも哲学はそういうものなんですけど。
でもギリギリまで議論をし続けることはとても重要で、その議論をするための知識だったり、道具を金曜日に扱っていたということですね。
この動画を撮っているのが9月23日ですね。
10月から新シリーズをやらなきゃいけないんですけど、まだネタが決まってないんですよ。
10月からどうするかちょっと決まってないので、たぶん10月からはちょっと臨時の動画をちょこちょこ撮って、またシリーズを組んで一つのテーマを掘り下げていく動画をやっていきたいとは思っています。
それをやるために、出版の編集みたいな人を入れて、本を作るみたいに目次を練ろうということをやっているんですよね。
年明けになるかどうなるかわからないですけど、パワーアップしてまたやっていきたいと思ってますので、ご期待いただけたらなと思います。
倫理・哲学
2023.9.29