今日は「知的な理解と情緒的な理解のどちらが大事か」という話をしてみます。ドクターは時に威圧的に見えるのか「冷たい」「馬鹿にしている」と言われることがあり、それは一体どういうことなのかと考えました。
医師か福祉か、父性か母性か、自立かコミュニティかというのは対立というか永遠の議題です。人が心を癒すというのは結果的に価値観によるもので、主軸が違えば誤解も生まれやすいと思います。
僕の場合は、圧倒的に「知的理解」を優先させることが多いです。よくロジカル思考やメタ認知(客観的に考える)が大事と言いいますが、その一つは「自己理解」です。
自分の欲望(リビドー)の突き上げに負けないようにする、親や世間(超自我)に押しつぶされずに自分らしくやるなど、無意識的に自分の望まない行動をしていることを理解していくようにします。こう言ったことは自己理解ともいいますし、そもそも脳が持っているバイアス、機能の理解ともいえます。
もう1つは客観視しつつ、対人関係、社会全般を理解していくということです。相手の言動を被害的に自分が悪いのではと受け取るのではなく、そもそもこの人はどういう考えで言っているのかを理解していきます。
ただ、こればかりになってしまうと過度に知性化されてしまい、わかった気にはなっているけれど心がついていかないということになります。本当の不安の理解、心の癒しは得られずどんどん孤独になったりします。
「情緒的な理解」は、共感、受容など相手の心に寄り添うものです。言ってみればお母さんに包まれている(Containing)状態です。これは体験という作業です。人間は動物なのでこのような体験はグッときます。
ただ、情緒的な理解は時間や関係性の問題、受け入れてもらえるのだろうかという怖さもあります。感情を利用しようとしているのでうまく乗りこなせるのかという問題もあります。共感して受容してもらうのは周囲の環境を求めるということですので、永遠に生きてくれる「お母さん」は存在しないように、理想にすぎないということもあります。
まとめとしては、「感情に支配されず、常識を疑い、自立していく」ということが大事です。
ただこれは体験からしか理解できません。頭だけで理解しようとしても仕方なく、対人関係の中でしか理解できないこともあります。
また、心の問題のすべてを知ることはできませんし、そもそもその必要もありません。時が来なければ知ることができないこともあります。