本日は「甘え、根性論と病気の違い」について解説します。
患者さんと喋っていたり、YouTubeを見ている方とコメントやYouTubeLiveを通じて意見交換をしていく中で、「私は甘えているのでしょうか、それともやっぱり病気なんでしょうか?」という質問はよくいただきます。
実際の患者さん以上に、周りの家族だったり、精神疾患のことをよく知らない人とはこの話題はよく出ます。
毎回説明するのですが、わかってくれる人もいれば、何かよくわからないなと思う人も結構います。
そもそもの人間理解というところから話をしないと理解しにくいのかなと思ったので、改めて人間とはどういうものなのか、その中で病気とはどういうことなのかを解説してみようと思います。
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自由意志?
人間は心があり、意志があります。僕らは人格がある。
自分というのはたった一人の存在で、自分で何かを決定して自由に行動できると思っていますよね。
今、お茶を飲もうと思っているとか、今度の休みにあそこへ行きたいな、お金があったらあれ買いたいな、あれ食べたいな、自分の自由に動けると思っています。
でも実際、本当に我々は自由に動けているんですか、という話です。
僕らは自分で何かを決定しているようで、ほとんどのことは決定できていません。
これがまずそもそもの人間理解のスタートです。
昔は聖書が決めていました。
僕らは日本人ですが西洋化されてしまっているので、西洋の歴史の流れを基本的に汲んでいます。僕らの思想は。
だから西洋的な発想でやっていって良いのですが、基本的には昔はキリスト教があって、神様が人間を作ったと。
神様の意志によって我々は動かされていると思い込んでいました。
悪いことをしてしまうのは、自分の弱さだったり、悪魔のせいだと考えていたということです。
そういう世界観から、デカルトの時代になる。いやいや、「我思う、ゆえに我あり」、自分たちには意志がある、自分たちは考えていくことができると考えるようになった。
キリスト教の影響を受けずに、聖書の影響を受けずに、我々は自由に考えていくことで、経済を豊かにすることができるし、幸福に生きていけると思うわけです。
でも戦争などありますよね。
戦争があったりして、我々は自分たちが考えているほど賢くないんじゃないのと。
しかも愚かなリーダーや愚かな大衆ではなくて、そもそも文化やシステム上愚かな選択をしてしまうんじゃないの、ということがわかってくるわけです。
意志で動いているというよりは、文化、社会的な影響によって、自分たちの自由意志はすごく制限されているということがわかってきている。
これが今の僕らの考え方です。
これが今の人文系の人たちの結論です。
哲学者たちが考えている結論でもあります。
もっと新しい、もっと画期的な理論が出てきたり、哲学者や天才が出てきたら、この理論は打ち砕かれるかもしれませんが、基本的には僕らはそういうものだと考えています。
昔からずっと考えているんですよね、そうは言っても。
デカルトの前から本当に神様がどこまで考えているのか、決定しているのか、自分たちの自由意志はどれぐらいあるんだろうということは、常に人間を悩ませてきた話題であって、一見自分たちの自由に振る舞えているようなんだけれども、自由に振る舞えていないということは知識人の中では常識でした。
それが今日では文化、社会的な影響だ、ということで言われていると。
もうちょっと話が進むと、やはり脳の影響があるわけです。
僕らは理系の人間だし医師なので、脳や遺伝子の影響でこう考える。不安を感じやすい人もいれば感じにくい人もいる。アルコール依存症になりやすい人もいればなりにくい人もいる。そういうこともわかる。
疲労の状態によっては怒りっぽくなるときもあれば、元気だと我慢しやすくなったりもする。そういうことがわかってきています。
人間は身体の影響や遺伝的な影響をすごく受けるので、自由意志というのが思っている以上にないということがわかってきています。
精神科の病気
そこまでが健康な人間です。
精神科というのはここからもう一捻り入るわけです。
もう一捻り入って、でも病気にかかるとこれらすべてを狂わせるよねとなります。
自由意志はぐちゃぐちゃになるし、文化・社会的な影響も受けたり受けなかったり、もうめちゃくちゃになります。
正常な脳の働きをしなくなる。
脳が止めてくれない、ストップをしてくれない。
そういう本能的なものもぐちゃぐちゃになってしまうというのが精神科の病気です。
受けた影響をさらに全部ひっくり返してしまうのが精神疾患だ、ということです。
僕らの診察はかなり難しいのです。
そもそもこの人はどういう意志があるのか。
そしてこの人はどういう文化、社会的な影響を受けているのか。
遺伝的な背景、生理的な影響をどれぐらい受けているのか。
そしてそれをすべてひっくり返すような形で、どんな病気にかかっているのかということを、僕らは診察の中で判定していきます。
わけがわからない感じがするかもしれないけれど、これが僕らが考えてる人間像であり、精神科医が考えている人間像です。
精神科の患者さんはここまで説明しなくても、なんとなくこういうことは直感的に理解していたり、わかってくれている人もいます。
ただ、多くの人はこういうことをわかっていません。
多くの人は、そもそも文化社会的な影響を受けているので、自分たちの意志というものがすごく制限をされている。
自由に考えることができないということすら発想がないんですよね。
ちょっと哲学的な基礎教養があると、システムの関与、ルールの関与、社会システムの関与を理解しています。
僕らは、実はそういう制限の中でやっている、ちっぽけな存在なんだろうなというのが一部の人はわかっている。
でもこの人たちでさえ、脳やそういうものを動物的な範疇まで含めて理解しなかったりします。
もう一個進むと、動物的な存在として人間を理解していたりします。
理系の人はここまで理解しています。
理系だったりすると、人間も動物の一種だからこうだよなとか、本能ってあるしな、と思ったりします。
ここにまたもう一個壁があります。
病気や異常値の理解というのはとても重要です。
普通のものとは一線を画すのです。
発達障害というのはスペクトラムだから普通の人と同じなんだ、というのはまたちょっと違います。
やはりちょっと一捻り、ちょっと変わっているんですよね。
ここら辺の理解は結構難しいなと思います。
例えがすごく悪いのですが、誤解を恐れずに言うならば、LGBTの話を想像するとわかります。
性的な指向がちょっと違うだけで、人間として同じです。
男性だったら女性を好きになりますが、同じような形で、ちょっとしたボタンの掛け違いで同性を好きになる人がいる。
それだけと言えばそれだけですが、この「それだけ」が結構な差です。
この結構な差が、文化的な背景も含めて修飾されている。
偏見や差別の歴史もあったけれど、今はそれが解かれつつある。
だけどここのちょっとしたズレがある。
このちょっとしたズレが、発達障害だったらどうなの、境界性パーソナリティ障害だったらどうなの、ということなのです。
ここの違いは想像するのは難しいです。
同性愛者ではない人が同性愛を想像するような感じ、普通の人がバイセクシャルの性興奮を想像するような感じと似ていて、僕らがちょっと発達障害の人のことを想像するとか、境界性パーソナリティ障害の人を想像するというのは、自分たちの延長線上にあるもののように見えて、実はちょっと違うということなのです。
これは想像しにくいし、結局甘えや根性の問題なんですか、ということになってしまいます。
性的マイノリティーの人たちが同性を愛してしまうこと、性指向が違う場合、好みの違いだよねという話にはなりません。
好みの違いと言えば好みの違いなのですが、そうではなくて、やはりちょっとした生物学的なボタンの掛け違いがあって、その掛け違いというものはやはり病気を想像するときと似ています。
ここが理解のしにくさなのかなという気はします。
理解してしまうとよくわかるのですが、理解していない人に理解してもらおうとするとなかなか難しいです。
わかりやすいと言えばわかりやすいのですが、ちょっと難しさがあるみたいです。
こういう理解の仕方をすると、サイコパスみたいな言われ方をしてしまうこともあります。
人間を動物と考えるなんてとか、感情を無視するなんてサイコパスっぽいなどと世間では言われるかもしれません。
確かに僕自身の喋り方は、冷たい感じがしたりとか、サイコパスっぽく見えることがあるみたいです。
それは人間をこういう見方をしているので、どこか自由意志だけに留まるわけではなくて、外側から話すこともあるので、サイコパスのように見えるのかなという気がします。
人生に意味はあるのか?
人生に意味があるのかないのか、生きる価値があるのかないのか、いろいろ話をします。自由意志の範疇で話すと、興味深いディスカッションのように見えるのですが、もうちょっと視野を広げていくと、そんなのはよくわからんという話にしかなりません。
人生に意味があるかないかというのは文化社会的な影響をすごく受けるし、意味があると考えるか無意味と考えるかは、その時の脳の状態や精神疾患の状態に左右されます。
本当にフラットな状態に自分の精神状態がなったときに、改めて人生の意味や無意味さを考えたりすれば良いのですが、多くの人は本当にフラットなときにその議題を考えるような思考はなかったりします。
実際、本当にフラットになったときに、僕らが人生を無意味と思うかというのは、宇宙から見たときに地球という存在は無意味だと言っているのと一緒です。
奇跡的な出来事なんですね、生きているということは。
ちっぽけかもしれないけれど奇跡的な出来事で、それが無意味とは思わないですよね。
ましてやそこに対して愛着というか所属感があれば、無意味とは思わないはずです。
そういうことなかなといつも考えています。
自由意志ということを考えていれば、甘えが根性論が成立しますが、そうではなくて人間というのは文化社会的な影響を受けている。そして脳の影響を受けている。
そしてそれらをすべて壊すような精神科の病気の影響を受けるということを考えれば、甘えや根性論という言葉がいかに限定的で、今の患者さんたちの精神状態を表現するのに不適切かというのがわかるかなと思います。
ということで、今回は甘え・根性論と病気の違いというテーマでお話ししました。
心について考察
2022.8.25