本日は「考えるのがメンドウだから死んでしまいたい」というテーマでお話をと思います。
「考えるのが面倒だから死んでしまいたい」というと、すごくバカにされているような感じを受けるかもしれません。もしくは「ああ、わかるわかる」と共感されるかもしれません。
実際に自分で本当にそういうことを起こしてしまうかどうかは別として、複雑な状況、いろいろなことを考えなきゃいけないわけですよ、精神疾患というのは。
今は休んでていいよとか考えなくていいよと言われながらも、ある程度時間が経ったら「じゃあこれを自分で決めてね」「こういうこと考えてね」とか言われちゃうわけです。
結構複雑だし、いろいろなことを考えなきゃいけないから、もう嫌になっちゃうんですよ。
ワーッってなる。ワーッとなって「もういい!」「もう死んでしまいたい!」とか思う。実際、そういう行動を起こさなくても治療に来なくなったり、アルコールを飲んだり、ギャンブルをしたり、他のことで気を紛らわせちゃったりするんですね。
そちらに熱中してしまって、依存になってしまったりとかそういうことをやっている間に、自分が何かしなくても物事が解決しているときもあるわけです。
誰かが助けてくれるとかそういうパターンもあるんだけれど、やはり他の人たちと違って精神疾患になってしまう人たちは、普通の人たちよりも社会的資源が乏しかったりするんです。
つまり、助けてくれる人たちが少なかったりなんかね。
他の人より恵まれてなかったりするんですね。孤立している場合があって、結局はどんどん悪化してしまうことがあったりします。
今回はそこら辺の話をしようかなと思います。
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自分から吸収していくのはきつい
精神科は、本当にうつがひどいときとか、統合失調症の幻覚妄想状態など、調子が悪いときには「薬を飲んで休みなさい」と言って考えることをしなくても済むわけなんですね。
だけどある程度時間が経ってきたり、良くなってきたりすると、健康ではないけれども調子が悪い状態で不幸な状態のときには、自分で何かを考えたり学んだり、自分からいろいろなことを吸収していって変化していかなければいけない。
認知を変えたり、知識を増やしたりしなきゃいけない。
決断して行動に移していかなきゃいけないんですよ。
でもこれがなかなかきついんですね。
普段から心のことを考えたりしている人、セルフモニタリングをして、ストレス管理をして、瞑想とか、そういう形で自分を見つめたりとか、自分の生き方を常に内省を繰り返している人だったら、それでもきついんですよ。
それでもきついんだけれども、でもそういうことに慣れていない人だったら、「えー」みたいな感じなんですよね。
いろいろなことを考えなきゃいけないから、パンクしそうになるわけです。そこを医者みたいな高学歴エリートの奴らがド正論でネチネチ言ってくるわけですよ。
「それ考えたの?」「福祉に頼った方がいいんだよ?」「薬はちゃんと飲みなさいよ?」「仕事ができないんだったら、福祉に頼ればいいんじゃない?」「生活保護を取ればいいんじゃない?」「年金を取ったの?」「年金の書類を準備したの? だめだよちゃんと期限通り行かなきゃ」とか言われちゃうわけですよ。
「うわあって」なるわけですね。「面倒くさいんじゃあ!」とかなるわけです。
その結果、行かないとか、お酒、ギャンブル、買い物、性に逃げちゃう、逆に自分をロボットのように扱って「もう考えられません」「わかりません」と言って黙りこんじゃうのがあります。
性というのはいろいろあります。恋人をつくってそちらの方に熱中する、複数の恋人をつくる。
東京だと歌舞伎町が近いので、未成年だけど歌舞伎町に入り浸るとか、ホストにハマっちゃうとかね。そういうことです。
結構苦しいですよね。
何を考えなければいけないか
何を考えなければいけないかというと、たとえば生い立ちを語り直す、親子の葛藤を考え直す、親はどんな人間だったかを考える。
そこでの怒り、甘えたい気持ち、この相反する感情をうまく自分の中に落とし込まなきゃいけないし、自分の能力の限界なのか、それともまだ努力ができるのか、甘えているのか、というところもせめぎ合いです。
自分の中で決断して、自分の能力はこんなもんだと受け入れていくことが大事です。
仕事だってそうですよね。お金を取るのかやりたい事をするのか、そのバランスですよね。
お金は使いたいけれども稼げないんだったらどこで妥協するのかとか。
そこもね、白黒ではなく、妥協のラインを探らなきゃいけない。家族を取るのか仕事を取るのかというのもせめぎ合い。
劣等感をどう受け入れるかとかね。若い人だと特にそうですよね。
10代、20代であれば、劣等感をどう受け入れるのか。
ルッキズム、自分の外見がそんなにイケてない、可愛くない時に、そこをどう受け入れるのか。
若くなくなってきて、シワが出てきた、胸が小さかったのを整形依存にならずどこで妥協するのかというのも、全部同時に来る。
それをある程度解決していく。認知の歪みを直していかないと、うつは良くならなかったり、不安は取れなかったりする。他人の評価を気にしないとかも含めてね。
でもこれを一遍に考えようとすると、あちらを立てればこちらが立たずという感じで複雑になっていくし、いろいろなことを考えなきゃいけないし、決断して決定しなきゃいけないのでパンクしちゃうことがあるんですよね。
パンクしてしまって、自分の人生を考える、内省していくという作業から離れていく。
カウンセリングがうまくいかなくなってくることを「アクティングアウト」と言ったりします。
そういうことがあったりする。
挫折を受け入れる
これは治療者と信頼関係がないからだとか、治療者が共感してくれないからだと言われてしまうこともあるのですが、ラポール(信頼関係)が形成されてないから潰れちゃったんだとか言ったりしますが、そうじゃなくて、そもそもその人の持っている力、内省していく力、慣れていないのに問題を与えすぎていることもあるわけですよね。
あと、パンドラの箱を開けるみたいな形で、普通の人、多くの人、一般大衆、一般的な人はこんなふうに考えなくていいんですよ。人生のある側面に。
みんな能天気に生きて、時が来たら悩んだりするかもしれないけれど、すぐ忘れてしまいますし、自分で決断しなくてもなんとなくの落としどころが決まるんですよね。
だけど病気がある人とか、不幸な人、不運な人は自分で決断しなきゃいけないんですよね。
そして自分でこの挫折を受け入れていく。自分で今回は体を壊しちゃったんだから、もう自分はそこに立てないんだということを受け入れていかなきゃいけないんです。
体を壊したっていうとわかりやすいし、ケガをしたっていうとわかりやすいので、みんなが諦めろと言ってくれるのですが、心が折れちゃった場合は誰も言ってくれないんですね。
医師でさえなかなか言ってくれません。
「それは自分で決めなきゃいけないね」という形になるんですよ。
昔のドクターは言えたみたいですね。
昔のパワハラとかモラハラ的なドクターであれば、「お前なんかそこそこなんだからここら辺で我慢しとけ」みたいなことをね、こんなに強い言い方はしないと思いますけど、言ってしまったこともあるだろうし、昔だったら「女の子なんだから働かずにお嫁に行けばいいんだよ」とか。
医者が言ったのか、学校の先生が言ったのか、父親が言ったのかわからないですけど、今だったらモラハラと取られるような発言もして。
だけどそういう形で挫折を本人が決めるのではなくて、相手に決めてもらうことができていたんですけれど、現代はそういうことはないので、自分で決めなきゃいけない。
自分でマイクを置く、白いタオルを投げる、ということをしなきゃいけません。
だけど一度にやるときついので、内省を深める作業はある程度相手の表情や能力を見極めながら、ちょっとずつ小出しにしていかなきゃいけないですね。
哲学的な議論になってくるので、とても抽象的で目に見えないものでもあるので、あまりいっぺんに考えると潰れます。
だからいろいろ加減を見ながらやらなきゃいけないですね。
先に与えてあげなければいけないこと
結局ぐちゃぐちゃになってくると本当に「死んでしまいたい」となってしまうので、そうならないためには、いろんなことを内省するのも大事なんだけれども、内省の前に与えてあげなきゃいけないこともあるんですよね。
優しさだったり、幸福感だったり。
哲学的なこと、内省を深めていく。それってとても危険な作業なんですよ。
危険なんですよね。こういう内省を深めていくという作業は。
自分の心の奥深くに入っていくというのはとても危険な作業なので、その危険な作業をするためには、幸福を用意しておかなきゃいけない。
自己肯定感を高めるようなものを持たせてあげなきゃいけないんですね。
それは目に見えるものではなく、目に見えないものなんですよね。
目に見える形の成功、成功体験を積んだから心の真髄に行けるのか。
普通の人はそうかもしれないね。
宿題ができたから、自分のことに自信がついたから行ける。
何かの大会で優勝したから、何かに成功体験を積めたからいけるかもしれないけども、精神科の患者さんの場合は、必ずしも成功体験を積めるかどうかはわかりません。
なので成功体験ではなく、本当に人間というのは生きていていいんだとか、本当に人間というのは優しいんだとか、本当に人間というのは外的なもの、お金とか地位とかそういう目に見えるものではないもので、評価されていく部分もあるんだということを知る。
それをきちんと理解してからじゃないと進めなかったりします。
深く行けばいくほど、信念というか、ある種の霊的な充実、ある種の信仰にも似た、自分と社会とのつながり、命の意味ということを理解しないと、その深いところには到達できない。
到達できないというか到達だったらできるんですけど、帰ってこれないんですよね。
なのでそういうこともバランスを意識しながら、アクティングアウトしないように話をしていかなきゃいけないですね。
だから治療者がやるというよりは、よくあるのは親ですね。
親、学校の先生とか上司が無理にやってしまって、正論をぶつけすぎて潰しちゃうことがあったりします。
この動画を見ている人は、自分で内省を深めていくとか、自分でド正論をぶつけて苦しくならないように気をつけてください。
人間の本質というのは生きてていいわけで、呑気に暮らせばいいわけだし、能天気に暮らしていいのです。
多くの人、大衆は、僕も含めてそうですけど呑気に暮らしてますからね。
そこら辺はご理解いただけたらなと思います。
今回は、考えるのが面倒だから死んでしまいたい、という話をしてみました。
前向きになる考え方
2023.4.30