本日は「様々なテーマを語る」というテーマで話そうと思います。
通院の中でいろいろなことを語っていくことの治療的な意義、ということを中心に解説してみようと思います。
先週の動画の続きにはなりますね。
先週の動画を見ていない人は見てもらった方が、理解はより深まります。ただ、前回の動画を見なくても、今回の動画だけでも話はわかると思いますので、気にせず見てください。
コンテンツ
不安を理性で抑える
通院の中で主治医といろいろなことを語ったりします。
今の日常的な困りごとや症状だけではなく、過去のこと、トラウマのことだったり、生い立ちのこと、親子関係、職場での人間関係、いろいろあります。
あとは自分の中にある劣等感や疎外感、いろいろなものを語ると思います。
語ることはとても重要なんですよ。
それはなぜかというと、前頭前野を鍛えるからなんですね。脳の前側にある部分です。
ここの部分で記憶したり、判断したりとかする、いわゆる理性的な部分なんですよね。
患者さんは不安に支配されていることが多いんですけど、不安はどこで生み出されるかというと、脳の真ん中にある扁桃体で生み出されるんですよ。
扁桃体が活動するので、不安が起きたり苦しくなったりとかするんですね。
不安が盛り上がってきた時に、ではどうしたらいいんですかということなんですけど、前頭葉を使って抑えてあげる必要があるんです。
薬で扁桃体の活動を抑えるとか、深呼吸したりリラックスすることで、扁桃体の活動を抑えるというのもあるんだけども、人間は理性でこの不安を落ち着かせることもするんですね。
例えば、観覧車とかね、怖いですよね。高いし、下を見るとうわっとなるわけですよ。落ちるかもと。
赤ちゃんや子どもは泣いちゃうかもしれない。
でも大人は「落ちることはないから大丈夫だ」と扁桃体の活動を抑えることができる。
飛行機に乗ったりするとウワーッとなるんだけども、扁桃体が活動しているんだけど、理性の力で抑える。
大勢の前で喋るとワーッとなるんだけど、「いや大丈夫だ。過去も大丈夫だったから落ち着け」と言って落ち着かせる。深呼吸したりして落ち着かせる。
それは理性の力ですよね、ということです。
前頭前野を高めることによって、いろいろな感情のトラブルがコントロールができるようになってきます。
これを鍛えるというのはどういうことなのかと言うと、いろいろなことを学べばいいんですね、勉強すればいいってことなんですね、と言うんだけどそれだけでもないんですよね。
「落ちないってわかってますよ。わかってるけどどうしようもないんです」とよく言われます。
知識と経験がうまくつながっていない
これは結局どういうことかというと、知識と経験がうまくつながってないんですよね。
一般論としては知っているけれど、自分の個人の体験としてはうまくつながっていない。
体験や思い出も、感情が伴って理解していないとダメなんですよね。ややこしいんですけど。
不安が起きたら「連想ゲーム」にならなきゃいけないんです。
不安が起きる→経験を思い出す。
不安が起きる→知識を思い出す。
知識から経験を思い出すとかね。
知識があるから、不安を思い出すんだけど大丈夫だとかね。
この連想ゲームができないといけなくて、これが三位一体になっていなければいけないという僕の中のイメージだったりするし、脳科学的にもそうみたいです。
ちょっと違うんだけどまあイメージなので思ってもらうといいと思います。
うまくつながっていないと治療は進まないですね。
例えばトラウマがあって不安があったときには、「落ち着け、落ち着け」と言って不安だけを抑えようとすると、あんまり良くない。
不安な時に「ああ、あの時もあんな風に嫌だったな」とか。
もう思い出したくないから切っちゃっているんだよね。トラウマってそうなんです。
酷いことがあった時に、過去の酷い経験とか思い出したくないから切っちゃうんだけど、そうするとうまくコントロールできなくてかえって悪化してしまうんですよね。
嫌な記憶は嫌な感情を呼び戻すんだけれども、知識で抑える。ここが悪循環じゃなくて良い循環を生むようなトレーニングが大事なんですよね。
だいたい繋がっていないことが多いです。
なので安全な場所で話を聞いて受け入れてもらうと、ああ、これは大丈夫なんだといって安心感になる。
そうすると成功体験になっていくので、その問題はちょっと良くなっていく。
これをいっぱい増やしていくってことなんですよね。
いろいろな連携が付いてくるといいと思います。
楽しい思い出とかと一緒で、遠足は楽しかったな、あの山は楽しかったなとか、あそこで食べたお菓子がおいしかったなとか。
ということはお菓子は楽しいな、おいしいなとか。
お母さんがお弁当を作ってくれたな、お母さん優しいな、お弁当美味しかったな。自分もお弁当を作ってあげたいな、子どもに、とかね。
そういう知識や経験の連想ゲームができるとうまくいく。
たとえ嫌なことがあっても、お母さん嫌だなと思っても、あの時優しかったよな、学校楽しかったよな、遠足楽しかったよな、やっぱお母さんいい人だなとか、そういう感じが大事ですね。
これが重要だったりするし、遠足のことを思い出す時のリアルな顔がいいですよね。
遠足の楽しかった感じ。友達と手を繋いだ感じ。緑の青さ、風の気持ちよさ。
そういう経験やその時に感じた心地よい感じも一緒に連想できるといい。
山といえばその時の学校はこうだったな、その年代のことや知識とか連想できるといいんですよね。
これができないというのが病的な状態なんですよね。
例えば、発達障害の人はそれが分断されていて、うまく連想が繋がっていかなかったりする。
境界性パーソナリティ症の人は、お弁当を作ってくれる優しいお母さんと、怒ったりとかするお母さんというのは同一人物だったりするし、場合によっては不倫をして家を出て行ってしまったのも同じお母さんなんだよね。
同じ人間なんだけど、それが分断されていて繋がっていない。
だから許せないし、怒りをコントロールできなかったりする。
あとはトラウマの問題があって、嫌な記憶を思い出したくないから、連続して過去の良かった思い出も思い出したくないとかそういうのもあったりします。
これをうまく繋げていくのがとても重要だったりします。
繋げていけなかったりもします。
それは能力的な問題というか、資質的な問題で繋がっていかないこともあるのですが、でも少しでも繋げていくというのが臨床です。
生い立ちを語る
例えば、生い立ちを語るということはよくします。
精神科の中で家族療法とかナラティブセラピーと言ったりします。
認知行動療法の文脈やいろいろな治療の文脈で生い立ちは語るんじゃないかなと思います。
今50代、60代だとします。
若い時があって、子どもの時がある。自分の人生ですね。
その時の親の様子、子どもの時に親が仲悪かったなとか、何歳の時に子どもを産んで今思春期なんですよとかね。髪の毛染めちゃってとかあるかもしれないですけど。
こういう全体を語りつつ、一つ一つの場面や思い出を語っていくのが重要ですね。
ある時は全体像を語り、ある時は一つの思い出を映画のワンシーンのように語っていくというのも重要です。
これをやっていくと前頭前野が鍛えられて、不安があっても抑えられるようになっていくみたいですね。
これは科学的な根拠というよりは、臨床的な経験からわかってきています。
これは実験データで表そうとか、統計的に論文にするのは難しいんですよ。
個人差が大きいからです。
治療者の力量という個人差もあれば、患者さん個人個人の力量の差、個人個人が持っている資質的な問題もあったりするので、結構これを標準化して、こういうことが治療としてうまくいくんだよということを論文にするのは難しいです。
もちろんナラティブセラピーや家族療法は論文にはなっているんです。
なってますけれども、もうちょっと細かいノウハウまでは論文化できないんですよね。
それはすごく個別的だし、再現性が乏しい分野になってきます。
本当に技術の要素が強くなってくる、個別性が大きくなっていくからだと思います。
これら一つ一つを語っていくのは、自由連想法みたいな形です。
精神分析で自由連想しなさいと言うのですが、自由連想がうまくいくというのはそもそも病気じゃないということなんですよね。
病気じゃないというか、神経症ということなんですよ。悩んでいる人って。
病理が深くないということなんです。
これがうまく行かない人たちを診ていくのが現代の精神科医療なので、やはり精神分析がなぜ廃れたのか、カウンセリングがなぜうまく行かないのか、というのはここに起因しているかなと思います。
かといって、他の新しい治療手段が画期的に劇的に違うかというと、そういうわけでもない。
丹念に辛抱強くやっていくということにはなるんですけどね。
YouTubeもこれと同じようなことが起きるんじゃないかなと思って、僕は今頑張ってやっているということです。
今回は、様々なテーマを語る、生い立ちを語るということで、臨床のあり方を解説してみました。
心について考察
2023.5.18