「精神療法を系統的に学ぶとはどういうことか」という質問がありましたので、今日はそれを解説してみようと思います。
「精神療法」はカウンセリングと似ていて言葉で人の心を癒すものです。僕は「精神分析」が好きなのでそれを中心に学んできました。改めて僕がどのように学んできたかを考えると、リベラルアーツ(基礎教養)を踏まえて学んできています。
精神分析は、フロイト(1856-1939)の人生を振り返りながら学んでいきます。フロイトがどのように精神分析を編み出したかというと、フロイト自身非常に頭が良かったので、ギリシャ哲学・宗教・近代思想・現代思想などすべてを把握した上で練り上げました。つまり、精神分析は一つの思想体系でありカルチャーでもあります。
精神分析が一世を風靡した後、今は「折衷主義」といって何でもござれとなっています。ですが、今話したようなバックボーンがあるからこその折衷主義なのです。そのバックボーンを学んでいくのが「系統的学ぶ」ということになります。
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現代の精神分析の特徴
・科学哲学、脳、薬理
科学哲学は非常に入り込んできています。精神医学はとてもファジーなものなので、科学哲学的に分類していくことはとても重要なのだと思います。脳科学、薬理学が人間理解の中心にあります。
・医師→心理士・福祉→当事者
精神療法、カウンセリングの主役が医師から心理士・福祉の人たちに移っています。また、SNSの普及により当事者の語りも重要になっています。
昔は精神療法は医師など特別な人たちが扱うものでしたが、このようにだんだん裾野が広がっていっている感じがしますし、傷ついている当人たちの声が重視されてきていることが現代の面白さかなと思います。
・ロジカル、ビジネス(CBT)
資本主義の論理がすごく食い込んできていると思います。認知行動療法(CBT)も、問題に焦点を当てて解決していくというビジネスのアイデアから来ているなとやりながら思います。
・疾患ごとの理解、虐待、児童精神…
疾患ごとの理解も進んでいます。「人間の心とは何か」と大きく扱っていくというよりは、一つ一つの疾患に専門家がいて細分化されています。患者さんにも「益田先生の専門は何ですか?」とよく聞かれます。専門は特にないのですが、疾患ごとの理解が重視されているから皆さんそのようなことを聞かれるのだろうなと思います。
虐待も当事者の声が大きくなっていると思います。
児童精神がすごく入り込んでいるのも現代の精神医学の特徴だと思います。子どもに心があって、大人と同じように悩む。もしくは大人と違った悩み方をすることに光が当てられています。そんなの当たり前だと思われるかもしれませんが、過去を振り返ると当たり前ではありません。
折衷主義に至るまで
折衷主義の少し前に流行ったのが精神分析です。フロイトとその同時代の人たちが作り上げていった精神分析をクライン、ビオン、ラカンらが発展させ、そこに構造主義も加わり折衷主義に繋がります。
精神分析の何が面白いかというと「無意識を発見した」ということです。人間には感知できないところに心がある、ということに焦点を当てました。
それの何がすごいかというと、精神科の疾患では、自分の心には自分で把握できないものがある、ということにすべからく遭遇します。自分にはこう見えているけど世界は違っているのもしれない、世界が変わったのではなく自分が変になったのでは、というのが狂気の気づきです。そのことに気づいて思想になったのが精神分析です。
近代思想の頃にも自分の無意識はあったにはあったと思いますが、基本的にはデカルトの合理論でいうように、自分の心はすべて自分でコントロールできるのだというベースに成り立っていました。精神分析はそれは違うと言いました。
ではなぜ自分の心は自分ですべて支配できると言ったのかというと、キリスト教のバックボーンがあったためです。キリスト教では神の教えが絶対なので、それを疑ってはいけません。これをもって国を治めていたのですが、ルネサンスの時にキリスト教を疑いなさいとなります。そしてキリスト教を疑い、人間はすごいのだと一気に逆方向に振れていきます。その後またぶり返し、人間にも愚かさはあると言ったのが精神分析です。人間の愚かさがあると言った時に、人間には精神の病があるということも同時に見つかりました。フロイトの死後くらいに第二次世界大戦やナチスドイツが始まったので、人間の愚かさに気づくちょうど良いタイミングにあった思想ということになります。
日本の思想
海外の人はギリシャ哲学から現代思想までをリベラルアーツ(基礎教養)として学ぶと思いますが、日本ではこの辺りはファジーです。それは日本には日本の思想があるためです。
では日本の思想とは何かと言うと、江戸時代からは儒教(縦社会)に支配されていました。儒教はもともと中国の思想で諸子百家から生まれました。その中には老荘思想もあり、この辺りは再発見されてマインドフルネスにも繋がっています。その後、福沢諭吉が西洋から現代思想を引っ張って来て、プラグマティズム(役に立てば良い)という思想に切り変わっていきます。
儒教より前は仏教の教えでした。国をまとめ上げるのに何らかの思想やビジョンが必要で、そのために聖徳太子がインド生まれの仏教を中国経由で引っ張って来て、それを国の方針(国教)としました。
仏教的な価値観から儒教に移り、明治維新で現代思想を取り込み、そこに近代思想やキリスト教、精神分析も受け入れて、いつのまにか折衷主義になっていきました。
患者さんと話していても、この人はまだ儒教的な親子関係を話しているな、仏教的なことを言っているななど、時々価値観の流れが混乱したりします。仏教や儒教が無意識的に入り込んでいて、自分たちのベースとなっている思想が混乱している、妙に土着化しているということなのだと思います。僕自身も、自分の価値観がどこをベースにしてどういう論理で、どうしてそのようなことが信じられるのかがふわっとしています。
次の時代の価値観
・データxAI
この先はデータとAIの時代になると思っています。精神医学において、どうしてこの薬が効いているのか、どうして良くなっているのかがよくわからない世界に入っていくと思います。とりあえずデータ的には、AI的には正しいのでしょうということで進んでいく。それは、無意識的なものを発見した精神分析の流れと同じような流れで、意識ではコントロールできない領域で進んでいく、その辺りを治療に取り込んでいくということが起きるのではないかと思ったりします。
・人の心:感動
では人の心はどういうものかというと、それを考え直す時代が来るのではないかと思います。感動をするとはどういうことなのか、人の心を動かすとはどういうことなのかを研究していくのではないかと思ったりします。
・SNS:大衆支配
世の中全般に、SNS、大衆支配、分断された価値観といったことが臨床的にも重視されるのではないかと思います。諸子百家の時代もそうですが、今の折衷主義の先には思想が大衆化していくと思います。そうなるとすごく混乱して共通言語が減ってくるため、相手の言語に合わせてこちらがスイッチを切り替えて、感動を生むにはどうしたら良いかなどを考えるようになってくるのではないかと思います。
そこまで考えなければいけないならばデータとAIに任してしまえという世界に入ってしまいます。心は人間の手に負えないとなってしまったら、データとAIがこう言っているから精神科医はこう振る舞えという時代になる。そうなるとちょっと寂しなと思います。データとAIに対抗するにはどうすれば良いのだろうかと考えたりします。
Zoomなどで人と人が会わなくてもコミュニケーションが取れる時代になりましたが、今はまだその辺りの意味が言語化されていない、つまり意味がわかっていない状態です。Zoomや在宅勤務で心を病んでいる人たちはたくさんいるので、そのような人たちに僕ら精神科医は何を伝えていくのかを歴史を振り返りながら考えています。
以上、今回はざっくりと話しましたが、現代的な治療法だけでなく縦のラインも意識しながら学んでいくと、心というものが広がっていくと思います。
【参考】
厚労省みんなのメンタルヘルス https://www.mhlw.go.jp/kokoro/
山川出版 倫理用語集