今日は「大人の中に子供が混ざっているかのような苦しみ」というテーマでお話しします。
治療の予後に関する話です。
主に、不安神経症、パーソナリティ障害、発達障害の人たちが、治療することでどれくらい良くなるのかについてお話しします。
患者さんは、未熟さや弱さ故に、子どもひとりが大人の社会に放り込まれているかのような心細さを感じていることがよくあります。
確かに、僕らが不安になるときは自分ひとりが無力というか、裸の状態で集団に放り込まれたような心細さを感じるので、ただのトートロジー(言い換え)のような感じもしますが笑
ただの不安の言い換えかもしれませんが、しかし、気づきもあると思いますのでこの話をしてみようと思います。
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人格とは
人格というものはどのようなものかと考えると、いろいろなものに要素分解できます。
代表的な4つを挙げます:
・体質、知能(知能指数)
・経験値
・疲れ
・環境要因
など
僕らの性格やキャラクターは生まれ持ったもので決まる部分もあるし、経験や学習によって作られている部分もあります。
忘れがちなのが、「疲れ方」です。
元気な時は機嫌が良いし、疲れていると怒りっぽかったりネガティブに考えがちです。さも人格が変わったかのように変わることもあります。
「周囲の環境」も関係があります。
気が弱い人たちの集団にいたら気が強い人に見えるし、気が強い人たちの中にいたら気弱に見えます。
環境によってその人のキャラクターが変わります。
子どもの中にいたら大人としてお兄さん役を演じますし、先輩方といれば後輩になります。
変わらない人もいますが、変わらないのは発達障害とよばれるような人たちで、常に自分のキャラクターを保持してしまいます。臨機応変に変えられませんが、そうは言っても彼らも多少は変わります。
大人っぽい人、子どもっぽい人
大人っぽい人、子どもっぽい人というのはどういうことかと言うと、知的能力や体質の問題というより「経験」を中心とした要素ではないか、と思います。
「これまでの経験を言語化し、次に応用できるか?」というのが成熟の度合いだと思います。
経験というのは「経験値」で、言語化や応用は「知性」の問題かと思います。
成熟しているから悩みがない、成熟していないから悩みがあるとかそういう単純な話ではありませんが、臨床において未成熟であるということが、大人の中の駆け引きについていけなくて不安や苦しみを生んでいるということが多くあります。
未熟であるためにあきらめができないこともあります。
成熟はしておいて損はありません。
なぜこのようなややこしい言い方をするかというと、成熟自体は、本来、治療の目標にはならないからです。
そもそも医療において、治療者は患者さんを成熟させようとか、人間的に成長させようという事はしません。
医療はそのようなものではないのです。福祉やコーチングになってくるとより教育的な要素は強まるかもしれません。
原則として、医療やカウンセリングは「患者さんが主体」なので、こちらから無理に成熟を強いるという事はしません。
成熟というのは主観的、恣意的な要素ですし、価値観を含んでいます。
ただ、臨床現場では「未熟だからなのかな」と指摘をすることはあるので、理論通りには進まないのですが。
主観的な行為、価値観を含む行為はできるだけ避けます。
成熟を阻む要素
成熟を阻む要素とは、主に「経験不足」「心理的抵抗」「生物的岩盤」の3つになります。
・経験不足
ずっと恵まれた環境にいるために、未熟な大人になっているということもあります。試験を受けない、頑張ったことがない、辛いことをしないなど。
逆に、虐待などのトラウマ体験がある、過酷な幼少期を過ごしたという人の中には、年の割には妙に成熟している人もいます。
経験不足の原因として、本人だけの問題ではなくスポイル(甘やかし)の問題もあります。
親が適切に教育をしなかった、自立を促さなかった、距離を取らなかった。箱入り息子、箱入り娘などと言いますが、このようなことが原因で経験不足になり、成熟を拒み引きこもりのようになっている。
引きこもりのようになっているために親はより過保護になり、治療が進まなくなるという悪循環に入ってしまっていることがあります。
・心理的抵抗
経験をしてもそれを受け取れない、怖いと思って考えたくない、経験について内省をしたくない、そのような問題もあります。
また、あまりにもその問題が悲惨すぎて考えることができない、考えようとするとフラッシュバックが起こる、言語化よりも前にガクガクと震えるだけで止まってしまう、そのために成長ができないということもあります。
心理的抵抗というのは幅広い概念なので他にもいろいろあります。
・生物的岩盤
経験しても取り込めないということがあります。知的な能力の限界値があります。
どんどん成熟してメタ認識ができるようになり、俯瞰的にものが見られるようになるかというと皆がそうではありません。あるラインが来るとなかなか成長しにくいというのはあります。
知的な障害がなくても、発達障害があった場合は成熟がどこかで止まってしまう、あるラインから急にゆっくりになってしまうということがあります。
経験とは
経験とは何かというと、
たとえば、人生のイベントにおいて
・自立:親からの自立、独立の問題(親離れできるかどうか)。経済的な自立、物理的な自立など
・死別:大事な人を失ったことがあるか
・挫折:夢を諦めたことがあるなど
・いじめ
・左遷
・子育て
・離婚
など色々あります。
人はいろいろな経験を経ていくものですが、経験があるか無いかで人格の要素が変わります。
ですから、初診や診察では、その人がどのような経験をしてきたのかを会話の端々で聞いたりします。
「この人はこういう経験をしてるから、このような人格なのだ」「すごく出世をしているけれど、こういうところの経験が足りないから部下に対して思いやりがないのだな、人間理解が弱いのだな」といったことを判断し、今体験していることをうまく補助してあげることを臨床やカウンセリングの中では考えます。
生物的岩盤の臨床的な目の粗さ
生物学的な岩盤には臨床的な目の粗さがあると思います。
発達障害と言いますが、それは多様なものです。この人がどれくらいできるのかできないのかというのはやはり目が粗いです。
どのようにそれを判断したら良いのか、臨床に応用したら良いかというディスカッションはあまりできていないと僕の印象としてはあります。
例えば、統計的なものや確率的なものはどれくらい考えられるのか、理解しているかというのは重要な要素だと思いました。
今回のコロナの問題やワクチンの問題もなかなか議論が進みませんし、全体に意見が一致しないのは、統計的なものや確率的なものを肌感覚で理解して判断していくことが、どうやらなかなか難しい人たちがいるのだということがわかりました。
目に見えないものをどう理解するかということもあると思います。
同じ医療崩壊というニュースを見ても、それを本当に問題だと思って感じられる人と、ただの風邪だろうとか医者がサボっているだけだろうという水準で終わる人にはどのようなことが起こっているのか。
臨床をしていても、コロナだからオンライン診療で良いですよという人と、やはり生で会わないといけないなという人もいて、それはどういう差なんだろうと思います。
これは心理的な問題なのか、生物的岩盤なのか、それともただ学習機会がなかったがための経験不足なのか、ここら辺はよくわかりません。
でも単純な経験不足や心理的抵抗だけの問題ではないのではないかと思います。
能力的に厳しいものがあるのではないかという気はします。
多様性
多様性についても考えました。
生物学的な岩盤や凹凸というのは、脳の多様性の問題なのではないかという意見もあります。
ただ「多様性」ということを安易に認めて良いのかというのは難しいことです。
多様性というのは、ある意味人間同士が共感できないことでもあります。
共感できたらそれは多様性とは言えないのではないか?とも言えます。
共感できないが故に多様性が生まれる。
僕らの意識レベルで共感しあえるものなんて、そんな差異はたかが知れています。
一見わからないけれど、議論を深めれば理解し合えたものというのは多様性の範疇に入るのか?
意見が決して交わらないレベルならないと、真の多様性とは言えないのではないか。
成熟について語られていない?
成熟について診察の中では語られていますが、文章や教科書の水準になるとなかなか語られていませんし、語りにくいのではと思います。
今日はマニアックな話になりましたが、成熟というのは重要な要素です。
治療の中では成熟していくことを僕らは見守ることしかできませんが、ご本人は成熟を目指すことをが基本の流れかと思います。
治療予後の予測?
治療的な予後の予測について、その人がどれくらい成熟していくかについては読めないものです。あまりよくわかりません。
子どもだとよりわかりません。10代、20代だと、1ヶ月2ヶ月で変わりますし、半年、1年後となると別人のように変わっています。
逆に年齢を重ねられた方は変化が乏しいと言えます。と言っても変わる人ももちろんいます。
恋愛を機にガラッと変わったり一気に成熟するということもあります。
予測というのは立てられそうで立てられません。
今日は、大人の中に子供が混ざっているかのような苦しみについて語りました。
心について考察
2021.9.11