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他人を理解することはできるのか? どうしても埋まらない溝をどう乗り越えるのか? 他者理解について解説

02:03 肉じゃがとカレーは理解し合えるのか?
03:13 「自分の延長にあるもの」と「質的な違い」
06:23 自分の延長にあるもの
11:59 質的な違い
14:52 言語交流を超えた治療

本日は「他者理解とは何か?」というテーマでお話しします。

コメント欄をよく見させてもらっています。
そうすると、先生甘いよ、病気は変わらないよ、相手は理解してくれないよ、僕らは理解し合えないよ、というネガティブなコメントもたくさんいただいています。
もちろん、良くなりました、病気のことが分かって勉強になりました、ということをコメントしてくれる方もいます。

反対に、先生が言いたいことも分かるけれど全然良くならない、言いたいことは分かるけれどもそこには深い溝があって、その溝を僕らは超えることができない、私たちは理解されない、という風に悲しんでいる、孤独感を感じていらっしゃる方もたくさんいらっしゃいます。

僕は、治療において何が大事かというと、
・自己理解
・他者理解
・しなやかな思考
ということが大事だと色々な動画で述べています。

YouTubeだからそう言っているということも、実はあります。
分かりやすく言うとその3つだよね、ということです。

自己理解はどこまでできるのか、他者理解はそんなに簡単なものじゃない、ということはテーマとしては触れて来ませんでした。
前回は「自己理解」について述べました。
今回は「他者理解」について語ってみます。

サブタイトルとして「肉じゃがとカレーは理解しあえるのか?」と書きました。

肉じゃがとカレーは理解しあえるのか?

肉じゃがは皆さんご存知の通り、じゃがいも、にんじん、玉ねぎとお肉を和風味で整えたものです。
和風味というと、酒、しょうゆ、みりん、お砂糖などを入れたりした甘じょっぱい味です。

一方カレーは、じゃがいも、にんじん、玉ねぎとお肉は一緒で、カレールーを入れます。
そうするとカレーができあがります。

材料としては結構似ていますが、全く別の料理のように感じる人が多いのではないでしょうか。
料理をしない人は特に材料が同じものと思うことは少ないと思います。
ただ材料が似ているので食べてお腹の中に入ると同じなのですが。

他人を理解するというのは、肉じゃがとカレーの関係を考えるのに似ています。
同じ人間同士なので同じところもあるのだけれど、決定的に違うところもあります。

「自分の延長にあるもの」と「質的な違い」

それは何かというと、「自分の延長にあるもの」と「質的な違い」ということです。

「自分の延長線上にあるもの」は理解したり共感しやすいです。
自分がある場面で不安を感じるから、相手の立場に立ってみると相手も同じように不安を感じるのではないか、相手も辛い思いをしているのではないか、相手も苦しいのではないか、と考えることができます。

相手が自分よりもケチだからこれは喜ばないな、相手は自分よりも頭が良いからこういうことを考えるかもしれない、ということも考えたりします。
それでもそれらはあくまで延長線上にあるものです。

ただ、精神科の病気に限りませんが、「質的な違い」というものがあります。

それは発達障害の人と会話をしている中で、決定的に違う何かがある、パーソナリティ障害の人と会話をしている中で「質的な違い」を感じるとき、うつ病や躁うつ病、統合失調症の人たちが幻覚妄想に支配されているときの理解し得ない部分というのは圧倒的に違います。

それと同じように、他人と近付けば近付くほど孤独を感じることはよくあると思います。
親子というのは究極的には理解しあえません。

子どものときは、お父さんお母さんというのは自分のことを100%理解してくれている、学校の先生は理解できるんだ、大人は子どもたちを理解できるんだという幻想を抱く、その幻想に包まれているから生きていけるのです。
大人になっていくと、どんどん他人というものが本当に他人である、理解しあえない部分が必ずあるということを理解します。

「カサンドラ症候群」の場合はすごく分かりやすいです。

最初は恋愛、恋は盲目と言いますが、恋愛というベールによって相手の違いを意識しなかったりしますが、これが結婚して何年か経ち子どもが生まれ育児という困難に遭遇したとき、パートナーが上手く振る舞ってくれない、家族に協力してくれない、自分のことしか考えていないと孤独感、寂しさや不安におそわれます。
それをカサンドラ症候群と言います。
その人たちが体感する不気味な狭間、驚く感じというのはあります。

逆に発達障害の人が、自分のことを発達障害と自覚するときの驚き、絶望感というのも、この質的な違いに起因します。
そういう話をしようと思います。

自分の延長にあるもの

自分の延長にあるものについてお話しします。

他人というのは自分と同じようなことを考えている人たちなので、相手のことをバカだと思っても相手は相手でしっかり考えていてバカではありません。

相手は意地悪、嫌なヤツと思うかもしれませんが、相手は相手で良心があり、話してみるといい奴で優しいところがあると分かる、ということがあります。

相手がどんな人か分かるためには、自己理解の延長線上にあるので、自己理解をどうするのかということをお話しします。
前回の動画の内容です。

自己理解をするにはどうしたら良いかというと、診断、認知の歪み、自分の家族の歴史を知る、ライフステージ、10代とはどういうものなのか、20代とはどういうものなのかを知る、社会、自分の業界はどんな業界なのか、役職はどういうことなのか、会社のことを知ると自分の立場を理解できます。

相手を理解するときには、診断は分からないので、こういう性格だよなということを同定して、この人はこういう性格だよな、こういうところがあるよなと知り、この人ってこういう家族だったのかな、この人は何歳くらいだからこういう問題を抱えているのかな、50代だから職場の上司は親の介護のことで悩んだりしているのかな、思春期の子どもを抱えているから疲れているのかな、新婚で子どもが生まれたばかりなので疲れているのかな、ということを考えたりします。
また、銀行だから堅いところにいるのかな、広告関係だからちょっと派手なのかな、というようなことを考えて相手を理解することができます。

ただ相手を理解することは難しいです。
性格というのも相性の問題だったりもします。
相性が真逆だと相手の性格に共感し得ないこともあります。

インドアが好きな人は究極的にはアウトドアが好きな人のことは理解し得ないし、音楽の趣味でも同じです。
だから、どこまで理解できるのかというのもあります。

家族の問題も結構違います。
家族は意外と全然違います。
東北の人と九州の人では全然違います。

九州は男性が強い社会なのでお父さんを立ててきたと言っても、頭では分かっても感情的に理解するのは難しかったります。
何十年もその価値観の中で生きているとはどういうことか、ということが案外分からなかったりします。
家族によっては、病気の人を抱えている家族、宗教の違いなど色々あって、同じ日本人と言えども多様性があります。

ライフステージもそうです。
30代はこう、40代になったらこうと言うかもしれませんが、ゆとり世代や氷河期世代などやはり違います。
同じ30代であっても価値観が違います。
世代ギャップがあります。

業界についても、会社が違えば、雑誌や新聞、SNSを見てこの業界はこういう価値観の人が多いんだなと思うかもしれませんが、実際に体験しないと分からないことが結構あります。

会社で働いたことしかない人は個人事業主の気持ちは分からないし、逆に個人事業主の人は大企業で働く融通の利かなさが理解できなかったりします。

よくトラブルになっていますよね。
お役所は融通が利かないとか言いますが、お役所の人たちは融通が利かないわけではなくて、カルチャーが違うので、してあげたいと思ってもなかなかできない組織ルールがあったりします。
そんな組織ルールは変えたらいいじゃないかと思ったりしますが、大きいとなかなか変えにくいのです。
これが分かりにくいということは、実際に体験しないと分かりにくいことはあるだろうと思います。
逆もしかりです。

僕は個人事業主で気楽にやっていると思うかもしれません。YouTubeなんかもできて好き勝手しゃべれていいなと思うかもしれませんが、一方で一人でやっている心細さなどもあります。
その辺りは体験しないと分かりにくいことかなと思います。

こうした点は考えていけば何となく分かることで、互いに違いがあるよね、人間って多様性があるよね、互いの価値観を認め合おうね、という綺麗事で済みます。
が、やはり済まない部分もあります。

質的な違い

質的に違う、話せば話すほど相手と自分の違いが分かってきて、ゾッとするような感じ、同じ人間なんだけれども全然違うものを見ているかのような、ぞくっとするような体験が他者理解にはあります。

精神科医は毎日これを経験していると言っても過言ではありません。
患者さんという狂気の世界だったり異質なものと接しているし、その異質なものを理解するというのが精神科医の特徴というかスキルです。

異質なものを理解するというスキルは、普通の生活をしていたら必要とされませんし、普通の人はこのような能力が必要だと思ったりしません。
普通に生きていたらそういうことを考える瞬間はあまりないと思います。

ただ精神科医は普通の瞬間にいるわけではなく、患者さんにとっては病気で苦しんでいるという人生の中でも特殊な時間に会う特殊な人たちなので、特殊なことを体感しなければいけないし理解しなければいけないのです。
普通の人たちもその特殊な世界に時々、突然迷い込むのです。
そうすると混乱したりします。

この質的な違いは何かというと、例えば幻覚妄想による了解不能性。
健康な心もあるのだけれどもドベッとした病いの部分もあって、そこは得体の知れない訳の分からなさというものを感じます。

盲点のようなものもあります。
解離性障害の人たちが持つ盲点、依存症の人の否認、こんなことをやっていてはダメだよと言っても全然通じない感じ、というものがあります。

カサンドラの人、発達障害のパートナーの人たちが陥るうつもあります。

障害がある人の内的な世界と言いますが、発達障害の人たちの世界というのも特殊です。
ASDの人たち、アスペルガーの人たちは他人の気持ちが分かりにくいと言います。
そういう人たちの体感している世界というのは、僕らが体感している世界とちょっと違うかもしれません。
認知症の人が体感している世界は、僕らがちょっと違う世界かもしれません。

質的な違いということは本当にあります。

言語交流を超えた治療

ではカウンセリングで治していけるかというと、知性を超えたところのカウンセリングは何なのか、ということです。
言語交流を超えた治療というのは何なのか、ということがあります。

これは特殊な技法なので、投影や転移、一緒にいる、相手に共感することで相手の世界にじわじわと入っていくんですが、分かりやすい例をあげると、音楽、スポーツ、アートは知性を超えたところかなと思います。
言語を超える、国をまたぐと言います、音楽やスポーツは。

まさにその通りで、やはり音楽を一緒に聴いているときや一緒に演奏をしているときには、互いに理解し合えるような感じはあります。
スポーツでボールをパスしあっているときには、気持ちが通じ合うような感じがあります。
それは言葉の延長ではなく、体感的に理解するということがあると思います。

同じように、数学、コンピュータ、ある種のアルゴリズム、道具や車、何でも良いのですが、技術というのも人と人を繋ぐものだし、互いの気持ちを共有しやすいものなのかなと思ったりします。

だからGoogle、YouTube、Amazonなど、海外の企業だけれども日本人も使いやすいしすごく親近感を持てます。
発達障害の人が好きなものはこういうものという気がします。

発達障害の人が好きなものは、こういうものでないと他者と繋がれない、社会と繋がれない、人々と繋がれない、寂しい感じだけれども健気な努力というものを感じます。

他人を理解するのはすごく難しく、どこか理解し得ない部分があります。
質的な違いというのがどこかあります。

ただ、それで努力をやめるのではなく、諦めるのではなく、理解しあえる部分はすごくあるし、その質的な違いも含めて理解しあう、分かっていく、そして頭だけではなく音楽やスポーツ、アート、数学、コンピュータ、アルゴリズムがあるように、僕らは別の手段をもって理解しあえる瞬間が来ます。

臨床で統合失調症の幻覚妄想状態の人を治療していると、会話では上手くいきませんが、どこかで心が通じ合う瞬間というのはあったりします。

絶望するのではなく、良い瞬間、理解しあえる瞬間を大事にしていくことが重要だと思います。


2022.1.22

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