本日は「叱る、叱られる」について解説します。
臨床の中で、叱るというほどではなくても注意しなければいけない場面があります。
これはダメだよ、ルール違反だよ、薬はきちんと飲まないといけないよ、ということから、時間外は診れない、診察時間が長引くと他の患者さんが待ってるからね、クリニックで暴れてはいけない、受付の人に怒鳴ってはダメ、クリニックのトイレなどで自傷行為をしてはダメまであります。
注意しなければいけない場面はたくさんありますが、それ以外にも実生活の中で叱る、叱られる経験があると思います。
叱られることがとても苦手な人、叱られることに耐えられない人、というのは患者さんでよくいます。
それはなぜかということを今回の動画で解説します。
そして普通の人も叱られるのが下手です。
それはどういうことなのか、ということもお話しします。
コンテンツ
知る痛み
叱る・叱られるときにどういうことが起きているのかというと、叱られるときは「知る痛み」が起きています。
自分の欠点や悪いところ、自分の犯してしまった間違い、失敗を知らなければいけません。
それを指摘されているので、痛みを伴います。
自分の悪いところを明確化されたり気づいてないところを指摘されて直面化し、その後に頭の中が混乱し、何が問題であったか整理されます。
そして理解して受け入れて、次からどうしようという創造的なことが起きます。
この一連の過程が「知る」ということです。
この知ることに対する痛みが起きます。
痛みはどういう形で現れるかというと、まずは自分の欠点や失敗を知らされたという痛みです。
恥をかかされたという気持ち、怒り、否認したり誤魔化したりする防衛反応が出てきます。
ですが、整理していく中で受け入れていきます。
そのときには「自己の再構築」や「枠組みの変化」が起きると言われています。
再構築などのためには今まであった自分の常識は壊さないといけません。
思い込みを直さないといけない。
それがなかなか苦しいし手間です。
今までこうだったからこうしなければいけない、今までエクセルで打ち込んでいたものをノーコードのアプリにする、紙で書いていたものやFAXでやっていたことを全部オンライン上でできるようにしなければならない、そういう手間を受け入れなければいけない。
それはすごく苦しい。
それと同じことなのです。
自分は失敗してしまった、それは手際が悪かったんだ、自分がこれまで考えていたよりも自分は大したことがなかったんだ、優秀じゃなかったんだ、ということを受け入れる。
だけど、ダメなんだけれどそれなりに愛されている人間なんだよな、という形で枠組みを変えて受け入れていくことが重要だし、それがなかなか出来ないから失敗してしまうということがあったりします。
ここまでが知る痛みに関することです。
叱る・叱られる
叱るとか叱られるというのはどういうことかというと、知る痛みを他者によって衝撃的にやられる、ということです。
相手の感情に乗せて言われてしまう、怒られてしまう、ということです。
そこには、「良い怒り方」と「悪い怒り方」というのが確かにあります。
相手のことを思ってちゃんと言っている、相手のことを信頼した上で叱る人もいれば、自分の感情にまかせて叱る人、自分の利益に合わないから怒る人もいます。
社会的に悪いことだけれど自分の利益になるから「お前、やれよ」という感じで怒ることもあったりするかなと思います。
では、患者さんは、叱られた側はどういう風に体験しているのかが重要だと思います。
相手は自分のことを思ってやってくれているのか、それともそうじゃないのか、感情にまかせてやられているのかによって受け取り方は違いますし、そもそも相手の背景が見えずに単純にただ怒られた、ただ怖い、嫌な思いをしたという風に受け取っているかもしれません。
もう一つは、自分が怒るときです。
自分が怒るときにそんなに相手のことを思わずに怒っている人であれば、相手もそういう風に怒っているのに違いない、と思うわけです。
未熟な人たちであるとそういう風に思いがちなので、そうすると相手も未熟なんじゃないかと思い、怒ってくれている相手に対して自分自身を投影して自分と同じ水準に落としてしまいます。
そうして、すごく暴力的なことをされているのではないか、と錯覚することもあるかなと思います。
失敗について
許しの体験というものも重要です。
理解、受容、創造の段階で、ごめんなさい、と謝って許してもらえた、受け入れてくれたという経験がないと叱られるのが下手だったりしますし、叱られることに対する過度な恐怖を覚えたりします。
これは結構難しいです。
日本社会、あるいは世界共通でそうなのかはわかりませんが、失敗に対して否定的な見方をする人が多いと思います。
失敗や挑戦を評価しないところはテレビを観ていても思いますし、昔の日本は違ったという言い方もしますが、少なくとも今の日本においてはそういう傾向はあるかなと思います。
だから叱られることがすごく苦手だったり、叱る人も叱ることが苦手だったりしますし、それを過度に怯えたり避けたりするところもあるかなと思います。
治療者はどうやったらこの問題を解決していけるのかというと、結構難しいです。
注意をしないといけないし、それを許しても相手が許されたと理解してくれないということがよく起きます。
どうして許された感じがしないのかというと、治療者がきちんと共感していないからじゃないか、治療者がちゃんと安全な場所でやってないからじゃないかという言い方をすることもありますが、実際はそんな単純な話ではありません。
相手のことをきちんと思っていてきちんと共感をしていても、それを相手が理解してくれるかどうかはわからない。
それは一般の人とは違うから、ということです。
自分の今の人間関係、日常の人間関係の延長線上で患者さんを捉えていくと、ちょっと問題があることが結構あります。
結局、最初に感じる不安、怒り、防衛反応がすごく過度なものだったりします。
不安障害の人だと、「恥をかかされた」と、抱えきれないほど、自分が崩壊してしまうほどの不安感に襲われてしまい、再構築まで及びません。
恥、怒り、防衛反応で止まってしまう、感情に支配されてしまうということがあるので、失敗してしまいます。
そこでは相手が見えなくなってしまっていて、相手が見えていないので自分の感情に支配されて、そこで終わってしまうということがあります。
人格障害や発達障害の人だと、そもそも自己の再構築、枠組みを再構築していく、自分の考え方を変えていくことがとても苦手だったり、あるいはほぼ不可能な人たちもいます。
変えにくい、固くなっていて変えられない人たちもいるので、同じことをしていても難しかったりします。
認知を変えていく、今まであった常識や自分の考え方を壊し、作り直していくことがなかなか難しい人たちはいます。
そういう人たちは結構いて、そういう人たちだから日常がなかなか上手くいかなくて精神科に通院する、ということがあるかなと思います。
どう伝えるか
どう伝えたら良いのかということもお話しします。
叱るとか叱られるということをどう伝えるのかというと、ゆっくり伝えたり、気づくのを待つ、というのが衝撃を減らす上では重要です。
叱られたという衝撃を減らすためには、ゆっくり伝えていく、気づくのを待つ、というやり方が有効です。
ただ、悠長にやっていて良いんですか?というと、そうでない場面もあります。
それは自傷他害の恐れがある場合です。
このまま問題があることを放置していた場合、自分を傷つけてしまうんじゃないか、誰かを傷つけるんじゃないか、というときにはやはり先手を打って伝えないといけません。
そもそも叱る・叱られるというのはそういうことです。
子どもが悪ことをしたときには「ダメだ!」と言ってパッと叩かないと。子どもが成長したら分かるだろうではなく、子どもが包丁を持って遊ぼうとしてたら「ダメ」と怒るじゃないですか。
これを悠長にやっていたら危険だし、気づくのを待っていてもダメだし、大きくなったら大丈夫だろうと言っていたら子どものうちに事故を起こしてしまうこともあるわけで、やっぱりきちんと怒らなければいけないということもあります。
大人の場合も同じような感じです。
でもそれが上手くいかない場合もあります。
それはどういう時かというと、自己愛性パーソナリティ障害の人や自己愛を重視する人です。
その人たちは自己愛の傷つきを極端に怯えたり否定したりするので、何で怒られなければいけないんだ、という形で怒られた内容や行為よりも自分が傷つけられたということに話の中心が移ってしまい、自分がやったことや事実が捻じ曲げられ、そのままいくということがあります。
こういう人たちというのは特権意識の問題があったり、自分の正義感だけを信じていたり、相手のことを考えにくい、共感性の欠如の問題があったりします。
そして、そもそも喰う・喰われるの世界で生きていたりして、許されるものではないという思い込みがあったりします。
だから叱る・叱られるということが死活問題になってしまい、かえって問題を大きくしてしまうこともあるかなと思います。
この問題は結構難しいです。
叱られるのが苦手な人たちがたくさんいるということです。
しかしどう注意をしていくのかということは人間社会においては必要なことであるし、それを悪いものとして受け取らずに、良い機会だと思って自分を変えていくことができる人とできない人とで差が開いていくので、この概念はとても重要ではないかと思います。
今回は、叱る・叱られる、について解説しました。
前向きになる考え方
2022.2.19