本日は「心とは何か?精神科医になって分かったこと」というテーマでお話しします。
精神医学の話をよくしています。
精神科医ですから当たり前といえば当たり前ですが。
そもそも精神科医は何をしているのかというと、心の治療をしています。
ではその「心」とは何か、ということです。
それについてちょっとお話ししようと思います。
この話をどうしてしようと思ったかというと、自分のことを考えていました。
いつも自分のことを考えているのですが。
患者さんのことも家族のことも考えていますが、やはり自分のことを考える時間も結構あります。
思春期に入った頃、自分の中で「心って何?何なんだこれ」と思いました。
心って何なんだろう、脳って何なんだろうということを考え始めました。
一番そこに興味がありました。
僕が子どものときは脳科学ブームでした。
だから珍しい子どもではなくて、流行りでした。
コンテンツ
心とは?
心は何かというと、精神医学的に言うと「意識」ということです。
意識とは何かというと、
・生まれたときに発生して死によって消失するもの
・脳の中にあるもの
意識は脳という臓器で起きている活動です。
脳の中で起きている現象が意識です。
・脳の外からも影響が与えられるもの
意識は多数の機能なので複数の臓器と僕は言ったりしますが、複数の機能が合わさって複合体としての機能があったときに、ブワっと浮かび上がる現象が意識なのではないかという言い方もします。
意識は脳の外のものからも影響を受けます。
目から入ってくる光、匂いや言語、聞こえてくる音にも影響を受けて意識は変わっていきます。
どこか捉え難いもので、意識とはこれだ、と指差すことができず、意識がどこから出ているか医学の中ではいまだにわかっていません。
ですが、色々な要素から成り立っているものなんだろう、ということはわかっているし、脳の一部が欠けても意識は変わりますが、私は何かということが残っていたりもする不思議なものです。
私って何?
「私」というものは何かというと、哲学的に考えても生物学的に考えても精神医学的に考えても何でも良いのですが、意識とか身体とか社会機能というものの複合によって決まるものです。
社会機能というのは関係性も含めてです。
「意識」のことを「私」と言います。
でも「身体」も「私」、私の一部です。
「社会機能」、仕事をしている、家族がいる、友だちがいるという中で浮かび上がってくるのも「自分」ということです。
意識がなくなったとしても、自分が考えた通りのことをAIがやってくれれば「私」は存在し続ける可能性は高いです。
反対に身体がなくなって脳だけが残りロボットの身体になっても「私」は成立すると思います。
別に友だちがいなくなっても、一人だけになっても「私」は成立します。
意識、身体、社会機能は、どれも「私」を構成するものですが、その一個が欠けても「私」は成立します。
逆に一個だけの場合、腕が切れてその切れた腕がコロコロと転がっていても、それは「私」とは言いません。
私とは何か、心とは何かというのは難しいです。
どうやって定義するのかは全然わかりませんし、それは僕が精神科医になった今でもわかりません。
それは僕の勉強不足ではなく定義困難なものです。
学問の最先端でも定義ができないものです。
探求の途中
そういうことを思いながら、僕は心を扱う様々なジャンルから精神医学を選びました。
精神医学を選び、精神科医として心を探求しているということになります。
心は捉えることはできないので、「病気」を捉える、何か「問題」を捉える、何かその一部を捉えていくことで、その背景にある「心」を理解していくことが僕らの探究なのかなと思います。
臨床をしながら患者さんとは心理教育という形で同じ心のイメージを共有しています。
YouTubeで扱っているのは心理教育の部分です。
それよりももっと複雑な、背景にある益田なりの心のデザインというものがあり、それはたぶん医学や心理学やニュースや○○学と呼ばれる様々な学問のエッセンスを吸収しながら、益田なりの心の理解というものがあって、でもそこからまた一般化できるものを抽出してそれを患者さんと共有しているという感じです。
臨床で起きていること、臨床の中で繰り広げられている心は何かということの出会い、不思議な心、様々な個性豊かな心と出会います。
そしてそれらが変わっていく、平凡な心になっていく、治癒していくこと、個性的なまま治癒されていくこともありますが、そういう中で「心ってこうなんだな」という発見を医学に還元しているというのが、精神医学なのかなと思います。
自己理解、心とは?
その動きというのは、患者さんが治療していく中での自己理解や心のこととも似ています。
私たちが何に悩んでいるのかということは、具体的な問題、具体的にいま起きている不安を一つ一つ解決していくことでしか、心ということ、自分ということを理解することはできません。
抽象的なものをどんなに扱っていっても、患者さんが精神医学のことを学んでいく、心理学の本を学んでいく、哲学書を読んでいくということでは、治療は進んでいきません。
それももちろん必要なのですが、やはり「具体的にいま起きている目の前のもの」をちゃんと吟味して理解していくことが重要だし、それを語り合っていくということでしか理解は進んでいきません。
そういうところが、患者さんと僕らがやっていることが似ているところです。
僕らも臨床をベースとして、医学のことも学びながら、また臨床に戻って…としながら、心を理解していくということなのではないかなと思います。
僕は心というものに興味があるのですが、その中でも精神医学を選んで、精神医学の中でも精神療法や対話に関することにより興味があり、その中でもよりYouTube応用ということに興味があるという変わった医者です。
そういう立場で色々な精神医学を伝えたりしています。
色々な患者さんから質問をもらったり、YouTubeでこういうテーマを取り上げて欲しいとか、雑誌や講演依頼も時々来るようになりました。
それも僕にとってはすごくありがたいのです。
何かもらわないと、お題をもらうとか出会いがないと、わからないというのが心なのです。
心を理解するためには、心を捉えようとすると難しいので、出会いから何かお題をもらった時に自分が考え、それをフィードバックして、こうだったんだ、こんな形もあるんだ、こんな事実があるんだ、ということがわかるというのが、僕の楽しみであり、皆さんと共有できる楽しみなのかなと思います。
その中で僕がやっているのは、精神医学の中の対話の中のもっと狭いところの、心の応用というのが、いま僕がやっている、日本の中でも数少ない専門性というか特徴なのかなと思います。
それがすごく意味があることなのか、学問的に意味はあるのか、何なんだという風に思われるかもしれませんし、僕も時々思います。
でもこれが僕であるし、今回もそうですがこれからも皆さんとお話しする中で、こういう僕が考えていることを伝えているということなのです。
今回は、心とは何か、精神科医になって分かったこと、というテーマでお話ししました。
こういう形で僕がやっていて、こういう形で僕は心を理解しています、皆さんが心を理解していくということも僕のやり方と結構似ている、そういうニュアンスを理解してもらえたらなと思って動画にしました。
心について考察
2022.2.24