本日は「人生の真実3つ」というテーマでお話しします。
以前にもこのテーマでお話ししたことがあります。「人生の真実とは何か」というテーマでお話ししました。
去年か一昨年のどこかで撮ったと思います。
(該当の動画を見つけられませんでした…)
今回は2022年の6月バージョンということで、今現在の僕ですね。
僕が臨床をしてきて、そして人生の真実とは何かと考え続けた結果、今こんなことを考えているということをお話ししようと思います。
コンテンツ
夢・死・両親(以前話したこと)
当時は「夢・死・両親」というテーマで話しました。
・夢
夢とは何かというと、人間は夢を見る。意識と無意識というものがあって、自分には心があるけれどその心は万能ではなく、自分では支配できない自分の部分があるとかそういう話を話しました。
・死
死とは何かというと、自分はいつか死ぬということです。それはよくわかっている。
今まで死ななかった人間はいないし、永遠に生きた人間、というのは今までいないんですね。だからおそらく僕も死ぬんです。当たり前といえば当たり前ですが、だから死ぬのです。
死ぬということは何かというと、命の終わり、ということでもあるのです。
けれどもこれは一つのメタファーであって、自分にはできることとできないことがある、限界があって制限があるということですね。
永遠に生きることはできない。誰かに勝ち続けることもできない。ご飯も食べ続けることはできない。そういうことがわかっているということです。
・両親
あとは両親がいるということですね。
僕らはどう考えたって、母親と父親の遺伝子を半分ずつもらって産まれてきました。
土からめきめきと生まれてきたわけでもないし、コウノトリが運んできたわけでもないし、愛し合っていたか、愛し合っていなかったかわかりませんが、だいたいは愛し合った両親から、その瞬間は少なくとも愛し合っていた両親から産まれてきていることが多いです。
子どものときは小さくてかわいいので愛されていた時期があります。
ただ、それがどこかのタイミングで愛されなくなっていることもあるし、愛され続けてるのですが、思春期、反抗期の結果、愛されていることを忘れてしまっているのかもしれない。
とにかく僕らは両親から産まれてきているという、当たり前と言えば当たり前ですけど、どうしようもない事実というのがあります。
これを人生の真実3つということで、前回お話ししました。
ではこれは今の自分はどういうふうに考えているのか、ということをお話をかなと思います。
夢→脳
例えば夢については、意識・無意識というところから、ちょっと僕は考え方が変わってきました。
「脳」というものをもうちょっと考えることが増えました。
臨床をしていて、意識・無意識という形で見るよりは、脳の中の一部でしかない、意識は脳の一部ということがすごく臨床しながらわかってきました。
どうやって本能や無意識に訴えかけるのだろう、どうやって本能を僕らはコントロールしていくんだろう、ということに臨床の興味が変わってきたというのがありますね。
脳の中には本能、生まれついたアルゴリズムというのがあります。
痛かったらスッと避けるし、痛かったらワッと怒る、痛かったら悲しくなる。
元気がなくなったら抑うつ的になってゆっくり休む。
元気なときは他人をバカにしたり、マウントを取ったりする、そういう本能があります。
人間には動物的なスイッチみたいなものがある。
ほかには記憶ですね。
経験、知識というものを記憶されています。
ただ、知識や記憶というのは一つの神経細胞にあるわけではなく、組み合わせであったりします。
神経細胞のABCDと組み合わせて、結果「木村拓哉」とか覚えたり、ACEFと合わせて「タモリさん」とか覚えます。
おそらくAは男性を意味していて、Cが共通しているのであれば芸能人ということで、イケメンということであれば木村拓哉、これがサングラスをかけた面白いおじさん、というのを組み合わせるとタモリということだったりするのです。
共通の神経細胞とちょっと違う神経細胞の組み合わせで木村拓哉になったり、タモリと思ったり、記憶されているのですが、これが少しずつ変化していたりします。
抽象化していってACEFがBDNHとかに変わったりします。
男性と記憶してた神経細胞が入れ替わってAというところからBに変わったとか、いろいろな形で抽象化というか、置き換えがあります。
人間の脳とか記憶というのはその場その場で生成されるとも言えるし、ある種固定化されているとも言えるのですが、こういう脳のメカニズムがあってその上に意識というのは成立しているんですね。
でも何か誤作動を起こすというか、ちゃんと動かないんですよ、意識って。
デカルトの言った「我思うゆえに我あり」みたいな自我像というのは否定されていて、どちらかというと、いびつなものの上になぜか浮かび上がっている私、という存在という方がしっくりくるなと思います。
意識というのは脳の一部であって、患者さんがなぜ精神科の病気になっているのかというと、脳の問題だったり、記憶の問題だったり、意識と本能とのすれ違いだったり、そういういろいろな要素があります。
そういう脳のメカニズムも考えながら、患者さんの言動を見たりするということが増えてきました。
やはり医者っぽくなってきた感じがしますね。ここら辺が心理士さんたちとは違うなと思います。
物理的な現実と社会的な現実
物理的な現実と社会的な現実、ということをよく考えます。
例えば、
物理的な現実というのは「紙」です。
社会的な現実というのは「お金」です。
「紙幣」ということですね。
「これは1000円札だ」と言えば社会的な現実ですし、「これはプリントされた紙だ」と思えば物理的な現実です。
元気がなくて何か自信のなさそうな人がいる。
調子が悪い人がいるというのは社会的な現実。
うつ病というのは物理的な現実。
人に見られている気がする、変な声が聞こえて怖い、殺されるかもしれないというのは社会的な現実。
統合失調症というのは物理的な現実です。
自分はギャンブルでしか生きる意味がない、お酒を飲むことだけが楽しみなんだ、というのは社会的な現実。
アルコール依存症というのは物理的な現実。
富士山というのは社会的な現実。
土が盛り上がっているものというのは物理的な現実です。
こういうことです。
社会的な現実というのは、人間が言葉や意味を付加することでできあがった、バーチャルリアリティの世界です。
物理的な世界というのは、人間の言語や意味性を排除した世界、記憶とかそういうものを排除した世界です。
ここら辺の見方を僕はいつも臨床しながら見ているということです。
変化のスピードが速い
まあ、僕らはそうはいっても社会的な現実の中に生きています。
本当に複雑だなと最近よく思います。
インターネットによって、本当に爆速でどんどん社会的な現実というのが拡大して変化しているので、ちょっと苦しいなというのが僕の最近思っていることです。
昔は、その人間が抱えている情報というのは脳内で蓄えられることしか社会的な現実はありませんでした。
あそこに行ったらリンゴが生えているなとか、あそこに行ったら蛇がいて怖いなとか。
自分の脳内で覚えていられることです。
そして次に「群れ」です。みんなで共有していること。
誰々があそこに行ったら崖から落ちそうになったから、あそこに行くのはやめよう。
誰々があそこに行ったらリンゴがなっていたから今度みんなで行こうとか、村の中で共有できること。
そして次の段階は、おじいさんの時代に川が氾濫したことがあった。
だから大雨が降ったときには、時々は山の上の方に逃げた方が良い。いつも大丈夫と思うかもしれないけれど氾濫することもあるとかそういう村の伝統です。
口頭で伝えられる情報だけが人間の社会的な現実だったのです。
今度は文字ができると、文字で書き残すことができます。
そうすると、人間が蓄えられる情報は増えていくわけです。
石に彫っていたものが紙で蓄えられるようになりました。
そして活版印刷です。手書きで残していた情報が機械でどんどん印刷できる。
今やインターネットを使って、もっと爆速的に情報が増えて保存できるようになったので、人間一人の脳みそが社会的な現実の中で見られる範囲は、本当に狭まったという感じはあります。
この社会的な現実というのは拡大する一方です。
昔だったらみんな同じテレビを見ていました。みんなが見ていたんですよ。
僕が子どものときはチャンネル争いもしていたし、親と一緒にテレビを見ていました。
今の子は想像つかないかもしれないですけど、僕は親と一緒にドラゴンボールを見ていました。
夜もヒッパレとかも一緒に見ていました。
本当にそうだったのものが、インターネットで個々に情報を見るようになりました。
こういう動画もそうですが、もうどんどん大きくなっている。
だから人間が扱う意識の世界、社会的な現実はすごく拡大して変化しているということです。
それだけ大きくなっているので混乱や不安を生んでいるのだろうなとよく考えます。
この変化の大きさやスピードが、本当に臨床をしていてもキツすぎますね。
昔は発達障害ということを伝えたりコンサータのことを説明するだけで「益田先生、いい先生ですね、すごいですね」と言われていたのが、3、4年前ですよ。本当に。
それが今やもうYouTubeを見て来ているから、発達障害だということもあった上で、じゃあメモの取り方を教えてくださいとか、扱うべきことがどんどん高度複雑化しています。
めちゃくちゃ難しくなっているというのが今の現実だと思いますし、そしてこの混乱は僕だけではないと思いますね。
多くの人たちが、昔やっていた仕事よりもはるかに難しい仕事をやらされているんじゃないかなと思います。
昔だったら「発達障害」「コンサータ」だけでもすごいと言われていたのが、もうそんなのはできて当たり前で、それは患者さんも知っているから、専門家だともっとこういうことを知っとけよみたいなことが増えたなと思います。
「死ぬ」ということ
あとは死ですね。死ぬということはどうなのか。
最近は、「集団」とか「AI」ということを考えることが増えました。
一人の生き物として考えると読みにくくなってしまうので、一人の人間の人生というよりも、集団としてどうなのかということを考えることが増えました。
それはYouTubeをやるようになったということも大きいと思います。
一人一人というのは、人間全体を見てこういうことが起きているのかなということを考えることが増えました。
人間の脳みそというのは、結局ネットワークありきなんですよね。
他者がいることで何かバランスを保てているとか、他者がいることで記憶を補完しあうとか、記憶を強化するというものがあるので、他者の存在なしには正常な状態を保てないというのがあります。
糠床を混ぜないといけない、新鮮な空気に触れさせないといけないみたいに、人間の脳みそは単独でいるとどんどん調子悪くなってしまうので、いろんな人と触れ合わないと正常を保てないというふうにできあがっています。
そして集団でくっつくので、人間は意識的な部分でつながっているように見せかけて、本能的な部分でつながる要素も大きいので、集団的無意識というのがあったりします。
集団的無意識とか、集団の行動を予測するとか、集団の病理を解決するというのは結構難しいし、意識で扱えるものではないことも多いです。
だから、AIみたいなものでないと扱いにくいくらいの問題なんだなということを最近よく考えます。
僕らの中でAIというものが身近にあることによって、意識は変わってきたなというのも考えることが増えました。
結局、世の中には正解はないというじゃないですか。でも正解はあるのです。
私はどんな仕事をすれば良いのでしょうかと言ったときに、僕ら人間には答えられないのですが、AIには答えられることはあります。
例えば、どんな仕事に就きたいですかと言ったら、AIにデータを入れるんですよね。
家から通える範囲で従業員は何人ぐらいで、パワハラはもちろんない方が良くて、業績も伸びていて、男女の比率も半々くらいでこれから伸びる、社長の年齢はこれくらいとか、そういうデータを打ち込んだら、おそらく正解は出てきます。
みんなそれをわかっているから、逆に迷うようになってしまったのです。
昔はそんなのはわからなかったのですが、今はデータを本当の意味で扱えばそれができてしまいます。
自分の好きな家を探すのと似ていて、本当にそういうことをできてしまう。
そういうアルゴリズムというものの正しさ、ということがわかってしまったというのが今の不幸でもあり、面白さでもあるって感じです。
AIというものを置いてしまったということが、すごく人間というか、臨床の難しさに変わりました。
例えばメモを取るときどうしたら良いのですかと言われます。
発達障害の人でメモってどうやったら良いんですかとか、コミュニケーションってどうやってうまくなりますかと聞かれますが、僕は答えられないんですね。
アドバイスとか、Tipsみたいなものを渡せるけれど、本当の意味でアドバイスはできなくて、じゃあ答えはないんですかというと、おそらくあるのです。
なぜかというと、「会話をするAI」がそのうちできあがるからです。
だから、コミュニケーション下手な人はどうすればいいのかというと、会話するAIのアルゴリズムを覚えてしまえると、脳にインストールすれば冗談も言えます。
だから冗談も言えるAIは今もできています。
想像力があればできるのですが、実際、複雑なコンピューターとデータとアルゴリズム、この膨大なコードを頭の中に入れることはできません。人間にはそういう制限があるからできない。意識とか学習によっては制限があるということですが、そういうこともわかってしまった。
そうは言っても、イーロン・マスクはこれを脳に組み込めば良いじゃないかと言っていますが、そんなことをしなくても、外部ハードウェアを使いながらコミュニケーションを取ればうまくいくのかもしれません。
両親→機能低下、機能劣性
あとは両親ですね。
両親から産まれてきたということも、最近は機能低下や機能劣性の問題として考えることが増えました。
精神科の問題というのは何か病気にかかって機能が低下したのか、たとえば機能が低下して活動量が減った、病気になって活動量が減ったから調子が悪い、すなわちうつ病なのか。
もしくは機能劣性です。
生まれながらにして弱かったのか、生まれながらして不安を感じやすいのか、生まれながらにして発達障害のようなものがあったのか。
機能低下の問題、うつ病とか適応障害のようなものとか、もしくは生まれながらのものなのかということをよく考えるようになりました。
機能低下の問題というよりは、機能劣性の問題を扱うことが増えてきたなと思います。
機能低下の問題であれば、治療して良くなるスピードがすごく速くなりました。
例えば、適応障害とかうつとか、そういう問題は薬を飲んで休めば良くなっていきます。
それも社会変化が起きて、昔はうつ病の人は休むなとか、うつ病なんてダメだみたいな感じだったのが、世の中的にやっぱりまだまだ厳しいとはいっても、10年前よりははるかに容認されてきて、わりと復帰しやすくなっています。
機能低下の問題はすごく良くなっていると。
逆に目立ってきたのは、機能劣性の問題です。
発達障害などはやはりもともとの問題で、何か調子が悪くなって機能が落ちたというよりは、生まれながらの弱さというものが目立ってきているなという気はします。
それから、外傷の問題です。
虐待があって機能低下して、それが機能劣性のように固まってしまった問題というのも臨床的にはよく見るなと思います。
医療の問題から福祉の問題というのがすごく強くなっているという気がします。
精神科の問題というのは、極端なものを病気とみなします。
普通の人よりも不安を感じやすい人ということで「不安障害」と言ったり、普通の人よりも怒りっぽい人、衝動的な人を「発達障害」と言ったり。
端っこにいる人たちは普通の人の延長なのですが、やはり社会の中では調子が悪くなりがちです。
そういうものを病気と言ったりするので、機能劣性の問題も扱うことが増えたなと思います。
あとはジレンマの問題ですね。
こういう病気です、じゃあこの薬飲みましょう、までは答えがあります。
でもそこから先のジレンマ。本当はどっちが良いんだろうという、正解がわからないけどAIだったらわかるかもしれない。
でも最終的にはどんなに考えても正解は出なくて、あとはエイヤッと決断しなければいけない問題というのも扱わなければいけないことが増えたなという気がします。
それは結局インターネットなどで知識が誰にでも手に入るようになって、ガイドラインも手に入るようになって、知識を伝えるというのが精神科医の仕事だったのが、インターネットとかに仕事を取られて、ある意味このYouTubeもそうですが、そして本格的なこのジレンマの問題、どちらが正解かわからないけれど、それを耐えなければいけないという問題を臨床で扱うことが増えたのかなとか思います。
今回は人生の真実3つというテーマで、最近考えている僕なりの問題意識を語ってみました。
前向きになる考え方
2022.6.11