本日は「宗教2世と虐待」というテーマでお話ししよます。
僕個人としては特定の宗教を信じていることもないですし、宗派に属しているということもありません。
精神分析が好きなのですが、フロイトはユダヤ教を否定したというか、ユダヤ教のカルチャーをどっぷり入っているんだけれども神はいないという形で、そういう19世紀というか、20世紀的な、神様の捉え方をした人です。
無意識というものはありながらも、神様に対する距離は相当取った人です。
そういうところに興味があるのでそこにシンパシーはあるのですが、かといって日本人でもありもともと自衛隊にもいたので少し右翼っぽいところや仏教も好きなところもあるなと思います。
ただ、それは自分のバイアスであって、やはり科学者として、精神科医として、フラットな目線に立つべきだなと思っているので、何か自分の中に信じるものがあったときには、できるだけ否定しようと思っています。
クリスチャンの精神科医の先生も結構いますが、かといってそれを否定しているというわけでもなく、人間はそういうものを信じるんだなと思いながら、社会というか、森の外で暮らしているのが益田裕介です。
僕はあまり価値や組織とかそういうものは信じないというか信じたくないというか、それで目が濁ることを嫌う価値観の人間ですね。
そういう立場の僕から見ているときに、宗教2世やそこの虐待を治療的に扱うときに、どういうスタンスなのかということは求められるというか、そういうことを聞かれることがあります。
僕はこういう立場だからこう思っているんだよ、あなたのことをこういうふうに助けてあげたいよ、と言う必要があります。
よく治療では僕のスタンスはこうなんだよと伝えているのでこの動画でも言います。
宗教2世と虐待の問題を考えていく上で、宗教2世だったらすべてが虐待だと僕は思わないですが、精神科に来る場合は虐待のケースが多いです。
これをどうやって治療していくのか、どういう風にカウンセリングしていくのか、ということを一緒に話していきたいなと思いますし、世間の人にも知ってもらいたいと思います。
家族や周りの人、恋人や友達がそのトラウマで悩んでいるのであれば、こういうことなんだよということを理解してもらえたらなと思います。
■親のこと
宗教2世と虐待の問題を理解していく上で、親のことを考えるのはとても重要です。
親は、日本においては特に、世間の人と違うものを心の依りどころにしているということです。
世間とは違う共同体に属することで、心の平安を得ようとした人たちです。
その背景には何があったか、ということですよね。
自分の不運とか不幸があったわけです。病気の問題なのか知的な能力の問題なのか、生きづらさの問題なのか、親自身が虐待を受けていたのか、社会からの被害があったのか、たまたまだまされてしまっただけなのか。
いろいろな問題があると思いますが、どうしてこれを選んでしまったのかということですよね。
普通の人と違う道をなぜ選んでしまったのかということはきちんと理解した方が良いし、そこには親が生きてきた苦しみがあるのだろうということです。
でも生きているということはみんな苦しいので、その他の解決手段もあったんじゃないかということです。
「しなやかさ」が欠如しているんですよね。
生きていく上での矛盾だったり不運を自分で抱えたり、創意工夫で乗り越えるというよりは、心の依りどころを求めてしまったのかなと思います。
最初に、この心の依りどころ、宗教を否定しないとか、僕は自分は何かを信じることはしないと言ったのは、心の依りどころを否定するということはあまり治療的に意味がありません。
僕はそういう道具主義者というか、現実主義者なので、意味がない価値観や考えはコスパが悪いのです。
だから心の依りどころは否定しないというスタンスです。
たとえばアルコール依存症の人を治療するときに、「アルコールは害なんだからすぐやめろ」とか、薬物依存の人に「薬は悪なんだからやめろ」「こんなものをクズがやるものだ」とか言ったら絶対治療なんかうまくいきません。
「悪いものだけどそういうものを助けにしちゃうこともあるよね」「確かに使ってみたくなっちゃうね」「お酒を飲みたくなる日もあるよね」「ギャンブルしたくなっちゃうこともあるよね」と、共感と理解を示しつつ、でもちょっと否定をする立場を取るというのが重要です。
宗教や何か心の依りどころにしているもの、人々が依存しているものに関しては、全般的に僕はこういうスタンスを取っています。
人によってはいろいろなものを心の依りどころにしています。
恋人、組織、権威、地位、お金、夢、人助け、自分がこうなりたいという将来のビジョン、SDGsでも何でも良いのですが、皆さん何かを心の依りどころにしていると思います。
科学の進歩だったり、真実の追求だったり何でも良いのですが、僕自身はそういうものを持たないようにしたいなと思っています。その方が治療的に良いからです。楽なんですよ。
自分が信じるものや心の依りどころがあると、治療していて疲れてきます。
自分はこう思っていて相手はこう思っている。意見の相違がある、違いが起きるから疲れるので、最初からその依りどころがない方が楽だなと気づいたので持っていません。
そういう親の理解というのはとても重要ですし、患者さんの言葉の端々からこういう親だったのかなということはよく考えます。
でもこれを子供である患者さんにフィードバックするかというと、これはまた別です。
フィードバックが必要な人もいれば不要な人もいるし、フィードバックすることでかえって混乱してしまって、自分の気持ちのコントロールが難しくなってしまう人もいるので、僕がその患者さんの言葉の端々から理解する親の真実というか客観的な親の姿を常にフィードバックするということはありません。
子供から見て、親のリアリティはどこまで必要なのかというのは議論が分かれます。
治療の段階でも違うし、その人の価値観、年齢などいろいろなものによって変わってきます。
子供は親を冷静に見ることは難しいんですよね。
それは僕自身も同じで、僕も自分の親のことをちゃんと見られません。
どんな人なんだろうと思いながら喋ります。
でもそんな子供は嫌ですよね。
うちの父親はちょっとイケてないから、クラスでいうとあいつみたいな感じだなとか思わないじゃないですか。
親にも思わないし、恋人とか奥さんにも思いません。
うちの奥さんはこんなぐらいだからクラスでいうとこんな感じで浮いてるのかなとか、カーストはこれぐらいかななど思ったりしません。
僕らはすごく幻想を持って、相手を見る。
親とか、子供とか、恋人というのは、そういう風にできています。
感情や本能的なバイアスがかかるようにできていますし、そういうものがないとたぶん人間的にうまくいかないのだと思います。
合理的な判断だけだと、子育てや家族機能はうまく機能しないんだろうなといつも思っています。
■母と子
よく僕が例えに出すのは、「ダーウィンが来た」という動物番組のキツネの自立です。
北海道のキタキツネの子育てを追っていたドキュメンタリーがあるのですが、子供が生まれてきてお母さんがかいがいしく育てて、エサを取ってきてあげて食べさせてあげて、おっぱいをあげて、おっぱいを飲まなくなった食べ物をあげる。食べ物を食べないときはかみ砕いたやつを口で渡してあげて、そして狩りの仕方を覚えさせて、子供たちが自立する段階になったら、別のオスとお母さんギツネはまた結婚して子供を作ります。
新しい小さい子供がいるときには、自分が産んだ子供、長男や次男を蹴り飛ばします。
そうするともうお母さんと一緒にいられないんだと思いながら、泣きながら、泣いているかどうかわかりませんが、とぼとぼと歩いていきます。
そして自分のパートナーを見つけて、群れを作るということです。
これはキツネだけではなく、人間も皆そうです。
赤ん坊のときは、母親と自分の境目がよくわかりません。一体感があるもの。
その次に、完全に甘えるものになります。
自分の手先というか、自分の体の一部ではないのですが、母親というのは自分のお腹を満たしてくれる。
泣いたらおっぱいを飲ませてくれるし、気持ち悪いなと思ったらオムツを替えてくれる。
自分ではないけれど、完全に自分の奴隷というかそういう風に考えるみたいです。
その次に、「お母さんというのは自分よりもパワーがあって、助けてくれるものなんだ」と思います。
「ああ、こんなにいいんだ」と。
おっぱいの出が悪いときには噛む、不機嫌になると敵意を向けるだけのものだったのが感謝に変わります。
感謝と甘えと、くっついていないと自分は弱いから死んでしまうんじゃないかという恐怖感に襲われるものに変わっていく。
だから親にくっつく。尊敬もするし、愛するようになります。
そしてだんだん大きくなって思春期に入ってくると、親は自立を妨げるものになります。
親は自分にとって嫌なものに変わっていく。
そして親と戦って、どうして親は理解してくれないんだろう、自分の気持ちをわかってくれないんだろうと言って決別していく。
決別していく中で、子供は親より体力があるから親を殴って出てしまう。
そして親が衰えてよぼよぼしていく。
そこに対して、自分は何で助けてあげなかったんだろう、あの時何で親の気持ちをわかってあげなかったんだろうと言って罪悪感を抱く。
その罪悪感をバネにして新しいコミュニティを作り、自分の子供に対して愛情を注ぎ、子供が自分に対してひどいことをしたとしても、自分はその時の罪悪感があるから受け入れる。
自分も誰かを傷つけてきたから大人になった。
傷つけながら、誰かを犠牲にしながら生きてきていることを知る。
その罪悪感とともに生きていくというのが人間らしさなのです。
つまり、親というのはなかなか直視できないものです。
■迷いなく叱れてしまう
ただ、皆そういう葛藤を抱えているから宗教2世にしても同じじゃないか、ということとはまた違うということです。
普通の親子関係ではなく機能不全家族であり、よりひどいことを受けていたりします。
もちろんすべての親ではありません。
精神科に来るときの親です。
世間とは違うものを心の依りどころにしていたとしても、すべての人が教育的な虐待をするというわけではありませんし、しなやかさが欠如してるというわけではありません。
ただ、子供に対して躾をするときに、普通の子供よりも厳しくなってしまう。
こういう教えがあるから、神様はこう言ってるんだからちゃんとしなさいとか。
イデオロギーとかそういうものをバックボーンにしているので、迷いなく叱れてしまうのです。
その結果、虐待に近づいてしまう。
神様が良いと言った、上の人が教えてくれたし他の人もそうやっているから、子供が出来が悪いときは叩いてもいい、子供が宿題をやらないときにご飯を抜いてもいい、子供が何かやらないときに怒ってもいい、ということになります。
そもそも子育ては人によって違います。
親も違えば親の仕事も違う。親の価値観も違うし子供だって違う。
いろいろな子供がいて、いろいろな価値観や能力があり、子供がいるチームの中の立ち位置も違うし、親がいるチームも違います。
親がエリートで負け知らずで、子供は成功体験が少なかったら、親と同じような叱り方をしても子供は潰れてしまいます。
これをバネにして頑張れ努力しろと言っても、子供が努力しても勝てないから、自分を責めるだけになってしまいます。逆に、親がしょぼくて子供が成功体験が多い時に、「いや、世の中怖いから、お前もそんな出る杭になってはいけないよ」と親が言うと、子供は「いや、お前がしょぼいだけだろう」ということになります。
「俺、成功できるし、失敗とか不安とかで俺の足を引っ張るなよ」みたいな感じで対立してしまうこともあります。
教育方針は結構違うのです。
正解も違うし、世代によっても違います。
その時に正しいと言われている教育のやり方と違ったりするし、環境が違うから皆が勉強しているときは勉強させなければいけないし、皆が勉強しないときはそんなにさせなくて良い。
迷いながらやらなければいけないのです。
親は正解がないところを迷いながら、これでいいのか、あれでいいのかなと悩みながらやるのが正解であって、これを迷わずに「こうなんだ」とか「この教えはこうだからこれでいいんだ」とやってしまうと虐待に近づいてしまうということがあります。
■時間の剥奪、自立の妨げ
宗教というのは行事や制度があります。それをやらなければいけなかったりするので忙しいのです。
忙しいので子供たちが友達やクラスメイトと遊ぶ、クラスメイトと同じように漢字の勉強する時間などが取りにくかったりします。
子供らしく振る舞うことやそういう時間を過ごすことが奪われてしまったりします。
もちろん、宗教の中での友達同士もあったりしますが、少ないメンバーで遊んだりするので、相性が合わない時があったりすると最悪なんですよね。
自由や選択肢が少ないということです。
反抗期が来たときに自立が妨げられてしまうというのもあります。
反抗期が来たときに「俺はこうしたいんだよ」とか言ったときに、普通の家庭だと「何を!」とか「こいつと気があわないな」とちゃんちゃんで終わるのですが、同じ共同体にいる、密な宗教の中にいたときに自立を妨げてしまうし、別の価値観を持つことが許されなかったりします。
それが子供らしさや自分の意志で生きるとか、創意工夫をするとか、そういう非認知能力を伸ばす機会を決定的に妨げてしまう。
その結果、自尊心を持ちにくかったり、本来積めるべき成功体験を持てなかったりします。
ではどうしたらいいのかというときに、宗教を自由に選べないことはかわいそうだから、たとえば16歳から20歳までの間は宗教とは無縁の生活をさせて、最終的に20歳になったら自分で選んだらいいよとかそういう形で代替する方法もあります。
あえて中学生から寮の学校に行ってその間は宗教的な活動しなくて良いよと。
その代わり20歳になったときに自分で決めなさいという選ばせ方とかもありますが、なかなかこれは自由に選べません。
子供というのは親のことが好きだし、親を助けてあげたいと思っています。
ヤングケアラーの問題と似ていて、親が病気になっているときに、子供は自分の時間を割いてでも、親のために何かしてあげたいと思います。
子供も教義や宗教は信じてないかもしれないけれど、親と一緒に行きたいとか、親の助けになってあげたいと思ったりするので、本当の意味での霊的体験とか、信仰心だけで決められないという問題があったりします。
■孤立と依存
あとは孤立と依存の問題です。
孤立と依存をさせるような仕組みが、意図しているかいないかを問わず、宗教には含まれています。
行事や制度で忙しくさせてしまうと、他の能力が身につかないので世間から外れてしまいますし、孤立してしまいます。
そしてそこから出ることを妨げられてしまうことがあります。
行事や制度、心のあり方、人との付き合い方を、宗教的なもので、バイブルという形なのか、制度の中に含まれているのか、あらゆる手段をもって決められてしまうということがあります。
これはよく分かりますね。
本当に苦しいというか、でも逃げなきゃいけないと思ってやめられる人もいるのですが、やはりやめると寂しいのです。
寂しいし、現実に出てきたときに、同じようなエクスタシーのある体験、霊的な体験ができるかというと、それはなくて何か自分の人生を生きていないような感じがするというのもあるなと思います。
子供の時の記憶や経験というのは強烈なので、それは生涯つきまといます。
僕もやはりAppleMusicとか聴いていると、昔の音楽を聴いてしまいます。J-POPを。
当時は僕はJ-POPよりも洋楽をすごく聴いていたんですよね。ジャミロクワイとか、エミネムとかそんなのを聴いていました。
でも今は椎名林檎とかすごい聴いてしまいます。宇多田ヒカル、globe、小室哲哉の音楽とか聴いてしまっていて、つくづく自分というのは日本人だし、かといって今時のJ-POPを聴いたりしなかったりするので、なんだろうなとか思ったりします。
自衛隊は宗教とは言わないけれど少し宗教的な要素もあるので、そこの価値観にどっぷりいたということもあります。そこをやめた。その寂しさもあるし、精神分析に関しても同じです。
そこを学びたいなと思ったけれど、そこにずっといられていないことの寂しさがあったりします。
本当に似てますよね。似ていると言ったら失礼ですが、ある種の価値観だったり、国のために命を捧げるという部分の価値観、それは自衛隊にはあるし、精神分析も一つあります。
孤立と依存というか、やめたらどこにも行けないよとか、これだけ勉強したんだから、他のことをやったら損だよとか、いろいろあったりします。
そういうものもあるので、やめた後も自分の人生を生きるとはどういうことなんだろうとか、当時のトラウマをどうやって理解したらいいんだろう、どういう文脈で理解したらいいんだろう、というのがわからず混乱していて、混乱から逃げるために過食嘔吐になったり、ギャンブル依存になったり、性依存になったり、アルコール依存になったり、うつになったりする人が精神科に来ているということです。
そして僕らはどうしたらいいんだろうという話をいろいろしています。
■矛盾をイデオロギーで?
結局、矛盾するんですよね。
人付き合いはどうしたらいいのかというのはその場によって違うし、AというプランもあればBというプランもあって、Aにはこういうメリットデメリットがある、Bにはこういうメリットデメリットがある。
じゃあどちらにしますかという時に、矛盾したり、どちらを選べばいいかわからなくなってしまう時があります。
だけどこれを決めていかければいけないのです。
ラーメンが食べたいのか、カレーが食べたいのか、どちらがいいかわからないから決めてくれと思うのですが、ラーメン食べてみようと。
ラーメン食べたらなんかダメだったなとか、やっぱりあの看板のある飯屋はまずいんだな、ということがわかって次からカレーを選ぼうと。でもいざカレーに行ったら意識高すぎて高かった。これだったらちょっとまずくてもいいからチェーンのラーメンの方が良かったなとか。
細かい状況はいっぱいありますよね。こんな話どうでもいいかもしれないですけど。
でも人生はそういうことの連続ですし、それは人付き合いも、何かの仕事を選ぶときも、自分の心の中の優先順位、葛藤の優先順位もそういうものです。
うまくいったり失敗したり、たかがラーメンかカレーかだけでもこんなに細かい要素があるのだから、いろいろなことが相当あります。正解はないです。
イデオロギーによって固定化してしまうと楽なのですが、後で困る。
そして他のところでひずみが出てしまうというのがあります。
イデオロギーで決めてしまうと矛盾があるのです。
ただ、古い宗教はどうなのかという話です。
歴史があると、やはりその矛盾を教義の中に内包させることができるのです。重みがあるから。
なので古い価値観、思想体系はそれを学ぶ難しさもあれば、矛盾を内包できる良さもあります。
ただ、コスパが悪いですよね。
やはり学ぶコスパが悪くて、自然と吸収できるもの、世間と同じものを考えていれば、そんなに悩む必要がなかったりします。
周りと違ういものを心の依りどころにするというのは結構コスパが悪いのですが、そこの矛盾とかグチャグチャになって悩んでしまうという人も精神科によく来ます。
■精神医学やカウンセリング…
あとは僕自身よく思いますが、精神医学とかカウンセリングとか、益田がやっているオンライン自助会とか益田がこうやってインフルエンサーみたいに精神科医YouTuberをやっているというのは、宗教と何が違うんですかという話になります。
これは僕も常に考えています。
宗教的な要素、イデオロギーとして固執しない、宗教の良いところと悪いところ、歴史の中で起きていた問題、最近の問題、そしてその中で人々がどう振る舞ってきたのか、そういうことを考えながら、どこまでやることが良いのだろうとか、どこまでインフルエンサー的な活動をしていいのかということは常に考えているし、自分ひとりでは考え抜けないからやはりYouTuberの会を作って皆で議論をしています。
まったく利用しないというのはもったいないんですよね。
精神医学だったり、カウンセリングの技法だったり、オンラインの自助会だったり、僕がインフルエンサーとしてこうやって情報発信してること。ある種、人に依存させるような作用があること。
これを利用しないのはもったいないと思うのです。
ただ、これが持っている弊害もあります。
では弊害とは何なんだろうとか、僕らが無意識にやっていて、だけど弊害を生むことになりうる要素はどこなんだろうということは、常に考えてそれを減らしていく努力をすることはとても重要だなと思います。
アドラーの「嫌われる勇気」という本があって、僕はこれに対してちょっと否定的というか、小馬鹿にしたような言い方をしていた動画があります。
「小馬鹿にしているんだろう」「益田は何なんだ」というコメントもあって、それに答えたかどうか覚えていないのですが、どうしてかと言うと、そこには思想の要素が強いんですよね。
当時のアドラーはフロイトに対する反発というか、フロイトへのアンチテーゼとしての要素もあったりするし、トラウマは存在しないという言葉が独り歩きしてしまう危険性もある。
それはなぜかというと、アドラーの出している理論には歴史的な重みがあっても、日本で流行った時にその歴史的な重みが取り払われて流行ってしまうと、イデオロギーだけが先行してしなやかさの欠如を生む可能性もあったりするので、ある部分、僕は距離を取ったような言い方をしたということです。
カウンセリングのやり方とか心のあり方とか付き合い方というのはこうだというものを言うと、やはりその場その場で判断が違うので、ある人たちにとってはしなやかさを失う結果にもなります。
別に僕はアドラーのことを否定しているとか、それがダメだとか、面白くないとかつまらないとかそういうことは全然思っていません。むしろすごく好きだし、尊敬もしているし、良い本だと思っているのですが、動画にした時は、どこかこういう態度でちょっと距離を置いたような言い方になってしまう。
「いや、俺ってバカだよね」みたいな感じで、自虐的なものをアドラーにも、親近感があるから向けてしまうというのはあります。
とにかく、宗教2世の方は視野が狭くなってしまっている場合があります。
そして、自分を責めるのは、自分の中の神様像が自分を責めたりするので、ただ自分を責めるのとはわけが違うのです。
本当に苦しい思いで心の依りどころを探しているという感じで、それは親子2代にわたる心の依りどころの欠如だったりするのですが、こういうことを治療の中でゆっくり癒していく、ゆっくり心の依りどころって何なんだろうということを自分が作っていくところを僕らは見守るということをやっていきます。
ということで、今回は宗教2世と虐待というテーマで動画を撮りました。
心について考察
2022.7.30