本日は「精神科医のストレス解消法とは何か」というテーマでお話しします。
「精神科医の」というタイトルはつけていますが、主に益田裕介のストレス解消法とはということに話の展開的になるのではと思います。
この動画を撮っているのは7月22日です。
どうしてこの動画を撮ろうと思ったかというと、前日の7月21日に公開した動画が「益田裕介が断酒して2年経ち、今の心境は」みたいなテーマでお話ししたのですが、コメント欄を読んでいると僕の人間味とかそういうものがすごく面白かったという人が多かった。
治療者がこんな思いでやっているのだということがわかって、治療に前向きになれますとか、そういうコメントをいただいていました。
自己開示というのは、本来やってはいけないと教わっています。
治療者は鏡のようであるべきだということで、診療を受ける上で、治療者側の情報というのはない方が良いのです。
色が付いてはいけないということなのですが、でもまあ、時代は変わってきていますし、僕はこういう形でYouTubeもやっているので、どういう塩梅がいいのかなと思いながらやっています。
でもちょっと自己暗示的な要素も含めながらお話ししたいなと思います。
コンテンツ
ストレス解消法を聞きたいとは?
ストレス解消法は何かとよく聞かれます。
YouTubeライブでもよく聞かれるのですが、いつもどう答えたら良いかわからず、「いや、実は趣味とか別に僕は持ってないんですよ」と答えたりしていました。
でも冷静に考えてみて思ったのは、「ストレス解消法ということをなぜみんなが聞くのか?」ということです。
一つは自分も参考にしたいということだろうし、もう一つは僕自身の人となりが知りたい、ということだと思います。
つまりストレス解消法というのがそもそもどういうものかを知りたいという意見と、あとはメタファーなんですね。
ストレス解消法によってその人がわかるので、その人のフラストレーションとかその人のあり方はどういうものなのか、そしてそれはどういう形で表現されるのかを知りたいということなのかなと思いました。
難しいですね。
このメタファーというのは何かというと、例えば運動が得意な人であれば、ストレス解消法はスポーツだろうし、体力が落ちてきたのならスポーツ観戦になる。
それがその人のもともと持っていた人間としての特性、本質、気質だったりするのですが、それが現代社会ではスポーツという趣味になってメタファーとして表現されるということです。
防衛機制
そもそもストレス解消法とはというよりも、ストレスとは何かというと「欲求不満」なのです。
欲求不満のことをストレスと言います。
あとは、抑圧されているというか、心の疲労が溜まっていることをストレスと言ったりします。
それが溜まっていくと人間はどういう風に反応するのかということです。
ストレスが溜まると人間はどうなるのか。どういう風にそのフラストレーションは発散されるのかというと、「防衛機制」という形で昔は表現されていました。
現代でもこの防衛機制の考え方は有効だと思います。
つまり、ストレスが溜まると人間はどういう行動をとりますかということです。
それが精神病的なものとか、成熟したものとか。ホワイトボードの下に行くほど成熟したもので、上に行けば行くほど病的なものです。
そういう風に分けて考えられています。
・分裂、否認、転換、妄想
例えば、精神病的なものであれば、分裂、分けてしまいます。
多重人格のようになってしまいます。
ストレスを感じている自分は別の自分、ストレスを感じていない自分は良い自分、という形で分かれてしまう。豹変してしまう。
普段はいい人なのに、突然人が変わったみたいに怒ったり泣き出したり、多重人格みたいになってしまうのを「分裂」と言ったりします。
あとは「否認」です。気づいてないフリをする。
自分の心が傷ついているとかストレスが溜まっているということを自分で認めない。あるのにわかっていないフリをする。
実際はわかっているのかもしれないけれど意識に上っていない。
無意識的に処理されているものを否認と言います。
あとは、はけ口が肩こりとかになるということがあります。
肩こりとか体の病気として出てくる。手が動かないとかそういうのを「転換」と言ったりします。
肩こりだと身体化と言ったりするかもしれません。
ヒステリーですね。
あとは「妄想」が発生してしまう。
被害的な妄想が出たり、「こうなんじゃないか」とか「誰か恨んでいるんじゃないか」という妄想に変わってしまう。
ストレスが溜まるとそういう変なことを考えてしまうところがあったりします。
・行動化、理想化、退行
もう少し成熟してくると「行動化」といって怒ったり殴ったり、買い物しすぎたりしたりということがあります。
それから「理想化」です。
何か素晴らしいものがあるんだとか、「推し活」もそうかもしれません。
献金するのも理想化の一種かなと思います。
あと「退行」と言って、赤ちゃん返りしてしまうというのもあります。
子供のように振る舞うとか。
・合理化、知性化、外在化
益田がよく言ってるのは、合理化とか、知性化とか、外在化とか呼ばれるものです。
「合理化」というのは「すっぱい葡萄」です。
自分の手に入らないものだと、あれは要らないんじゃないか、あんなもの本当はおいしくないんだとか言ったりします。
お金が手に入らないと「お金なんかいらないんだよ」とか、人気がなかったりすると「人気なんかいらないんだ」とか、モテなかったりすると「恋愛なんか無意味なんだ」と思ってしまう。
あとは「知性化」です。わかったフリをする。
人生なんてたった一回だし、死んだらみんな一緒なんだからどうでもいいだろうとか。
そういうのはわかったフリをする知性化だったりします。
「考えても仕方ないよね」というのは「外在化」の一種です。
未来のことはわからないから放っておこう、みんなが好き勝手やっても神の見えざる手でなんとなく世の中は良い方に向かうのだから各々は他人のことを気にせずにお金儲けに走ればいいんだとか。
・感謝、ユーモア、昇華
もう少し成熟してくると「感謝」です。
ストレスが溜まっていても、「いやでも、こんなことしてくれたな」と感謝する。
「いや、結構辛いよね。みんな辛すぎてやばいよね、へへへ」とか言って「ユーモア」に変える。
あと「昇華」ですね。
ストレスが溜まったときだからこそ、社会に役に立つことをやるんだという熱に燃えることを昇華と言ったりします。
ストレスの反応というのは、未熟なものから成熟したものまでいろいろなものがあるということが防衛機制の教えです。
ストレスが溜まったときにどういうストレス解消法がいいのかというと、基本的には下に行けば行くほど良いです。
世の中のためになるとか、感謝するとかそういうことは良いのですが、それだけだとやはりうまくいきません。
すごく退行することもあれば、変なことをしてしまうこともあるだろうし、でも良いストレス解消法というのもあるので、その辺りを意識しながら良いストレス解消法を選んでもらったら良いのではないかなと思います。
メタファー
メタファーの話に移るのですが、もともとの人の特性というのがあります。
得意なこととか。
運動するのが得意な人であれば、運動がたぶんストレス解消法です。
ですが、現代社会において多くの人は、運動をすることで仕事を得ているとかお金を得るということはあまりありません。
スポーツは得意だけど今は普通のサラリーマンをしていますよという人の場合は、その抑圧されたものは、スポーツをすることで解消されたりするし、ケガをしているときにはスポーツ観戦という形で自分の攻撃性とか、身体を動かしたいという本能を満たしてあげたりしています。
人間がもともと持っている欲望というのはありますよね。
食べたい、寝たい、性欲とかそういうもの。
あとは飲む打つ買うだから、お酒を飲みたいとかギャンブルをしたいとか、性的なものをしたいというのもひとつの趣味ではあるのですが、これは原始的な感じがしますよね。
健康にも悪いし、お金もかかったりするので、良い趣味のフラストレーションの解消とは思わないです。
あと、洋服を買うというのも、洋服が好きだとか、ファッションを楽しむというのも、自分の外見というものに対する抑圧のフラストレーションの解消だったりします。
外見が良いということは社会的な地位を高めたり、異性へのアピールになったりするし、ある種の性行為のメタファーでもあったりするので、洋服を買うとか、洋服を楽しむということで解消されることもあると思います。
旅行をしたいというのは未知への挑戦ですよね。
そういう形でフラストレーションを解消するかもしれないし、いろいろあります。
お金を求めたりとか、貯金が趣味、投資が趣味、出世が趣味、名誉が趣味。
あとはITやガジェットが趣味、人文系のものを読むとか勉強するのが趣味、ボランティアが趣味、家族のために何かをするのが趣味だとか。
そういう形でフラストレーションを解消するとかいろいろあります。
ストレス解消法とは何かというと、抑圧されている人間の原始的なものとか、本能や感情、自己表現とか色々なものの代わりというか、代償というか、そういうものだったりします。
例えば、闘争心を人間は持っているわけですよね。
スポーツの話に戻りますが、闘争心があって何かを倒すとか、人間の中に備わっているのですが、それを今の社会で発散してしまうとやはり問題が起きます。
人間社会にフィットするためには、腹が立ったものを殴ったりしたらダメじゃないですか。
出世したいからと上の人を殴ってもダメなわけです。
そういう抑圧されたものを、スポーツなどで、その攻撃性を解放してあげるというのは大事かなと思います。
そういう知恵があるから人間というのはここまで社会を大きくできた、進化できた、数を増やせたと思います。
「群れ」の中での担当
「群れ」としての人間ですね。群れとしての生命体があったときに、いろいろな人がいます。
不安を感じる人、不安を感じにくい人、運動が好きな人、運動が嫌いな人、食べることが好きな人、食べることよりも何か他のことが好きな人。
いろいろな人がいて、多様性があるから群れとして成り立っている。
この群れ全体をひとつの生命として考えていく発想がとても重要です。
群れの中で益田裕介はどういうものなんだろうと考えると、僕はなんだかんだ言って心のことを考えることが好きなんですよね。
僕も人生でいろいろなことを試してきました。
自衛隊にもいましたし、経営的なもの、ビジネスのことも興味があったし、ITとかそういうコンピューターサイエンスの世界も好きです。
だからYouTubeをやっているというところもあります。
いろいろな興味があるのですが、歳をとるごとに自分の適性ややるべきことがだんだん狭まってきている感じがします。
いろいろなことをやっていてもだんだん狭まってきている感じはします。
そういう中で残っているのは、やはり心のことを考えることが好きなんだろうな、という風に思います。
僕はこういう群れの中で「心のことを考える担当」というか、そういうポジションなんだろうなと最近はまたもう一回思い直していることがあります。
当たり前と言えば当たり前ですよね、精神科医なので。
精神科医が心のことを考えなければ誰が考えるんだという話なので。
群れの中では僕がそれを考える担当ですよね。
いろいろな人がいると思います。
研究者っぽい人もいれば、アーティストっぽい人、芸術家とかそういう人もいると思います。表現者みたいなタイプです。
臨床家なので僕はその中間にいるという感じです。
研究者ほど何かすごく研究したいということでもないし、学問の世界に打ち込むことに真摯になりたいわけでもないし、芸術家ほど抽象的なものとか、何かに対して表現していきたいとか追求したいという思いもないんですよね。
やはり普通の臨床家なんだろうなと思います。
何かに専念するというよりは、目の前に人がいて、目の前の人の切実な問いに対して、何か行動を起こしたい。そしてその行動に対して、すぐ反応が欲しい、というのが臨床家というかドクターだろうなと思います。
その問いに対して、何でもありというのが僕は好きです。
脳科学を使ったり、人文系の知識を使ったり。
学問をどれかに固定して律儀にやるというよりは、いろいろな学問をバッと使って、でもこの切実な問いが解消されれば良いというのがやはり面白いです。
患者さんを通じて、その問いに対して治療ができたとか、うまくいかなくても自分の中でわかった感じが起きるときが、一番面白いですね。
考え続けてフラストレーションが溜まったり、辛い思いをして、でも発散されるんですよ。わかったときにはブワッと。
その時の脳内麻薬が気持ち良くてやっているという感じです。
パズルを解くのが好きとか、数学が好きな人と結構似ています。
でも僕の場合は、プラスそこに誰かがいて、困っている人がいて、その人たちの切実な問いに共感してグッと入り込んだ上で、悩んで悩んでバッと解決する瞬間が気持ち良いのでやっているのだろうなと最近思います。
いい子ぶるなよという感じがするかもしれないですが、本当にそうなんですね。
お酒飲んだりとかそういうのも好きじゃないし、YouTubeで登録者数が増えるとか、再生回数が増えるということもあまりもう興味がなくなってしまったというか好きじゃなくなってしまったし。
見てもらいたいと思って頑張りますが、そこに対する楽しみというのがなくなってきたし、お金を稼ぐということとかにも、本質的には興味がなくて。
やはり心のことを考えたりとか、問題が解ける瞬間のブワッみたいな感じが好きですし、そこで治ってくれるとか感謝してくれるとか、患者さんが変化した時のブワッという感じが一番僕は楽しいし好きですね。
そういう群れの中にいる、そういう付属品というか、歯車なのかなという風に最近思っています。
ということで、今回は精神科医のストレス解消法とは何か、というテーマでお話ししました。
精神科医の裏側
2022.8.6