本日は「モラトリアムと非認知能力:子供化している若者?」というテーマでお話しします。
若者が勉強や仕事もせずに遊んでいることに対する怒りや不安があると思いますが、別にそれはいいんだよということを解説してみようと思います。
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モラトリアムとは?
モラトリアムとは何かというと、大人になるまでの猶予期間のことです。
高校を出てからすぐ働く、中学を出てからすぐ働くのではなく、大学生になったりちょっとブラブラしている時間があってその後大人になっていくということ、その期間を「モラトリアム」言ったりします。
高校を卒業して大学に進学しなくても、社会人になるのが25歳とか、大学に行っていてもほとんど勉強せずに遊んでいても別に良いのです。そういう期間をモラトリアムと言ったりします。
「非認知能力」というのは、数値化できない能力です。
例えば、漢字テストの点数や数学の点数は知的能力や学力という形で測定できますが、優しさとか落ち込んだ時に立ち直る力、コミュニケーション力は数値化しにくいですよね。
そういうものを非認知能力と言います。
モラトリアム自体は延びています。
つまり、大人になる年齢が遅れているのです。
臨床をしていてもよく思います。
僕が結婚した時や社会人になった時よりも、今の若者たち、特に東京の都心にいてウチに来るような若者たちは、結婚する年齢も遅ければ一人前になるとか社会人としての自覚を持つ感覚も遥かに遅いです。
今は30代で結婚する、35歳で結婚する、それは女性も含めて全然遅い感じはしません。
転職も当たり前になってくると、一生の仕事を決めるのが30代というのが全然普通になってきました。
20代はゆっくりしたり、遊んだりというのも全然普通です。
今の28歳ぐらいが、僕らの大学卒業時みたいな感じがあります。話をしていて。
それくらい子供化しているというか、大人になる年齢が遅れているという感じは正直します。
そういう印象を持っている方もおそらく多いのではないかなと思います。
今の親御さんもそういう風に思っていると思いますし、今の部下を見ているとそういう感覚を持つ人も多いと思います。
なぜモラトリアムが延びたのか
なぜモラトリアムが延びたのかというと、初婚の年齢、独身率、平均年齢、平均寿命が全体的に上がってきています。
少子高齢化が起きているので、数字としても明らかです。
高齢者が多いので文化自体も高齢化しています。
自分の中で一人前だと思う内的な要因もあれば、文化が一人前だと認定する、社会がお前は一人前だと認定する外的な要因もあるので、そういう意味で大人になる年齢というのは遅れている感じはあります。
外的な要因でも大人になる年齢が遅れているというのは事実でしょう。
もう少し考えてみると、社会自体が複雑化しています。
仕事の専門性も上がっています。
人類が持っている情報量は蓄積されていっているので、その職業で一人前になるために求められる専門性や複雑なものを抱える力がどんどん上がっています。
求められる能力が上がっているのです。
社会自体も複雑になっているからより専門性が求められるし、その専門性を極めるのもより難しくなっている。
それは人類が抱えている情報量が増えているからです。
だから「常識」とされているレベルがどんどん上がっているということがあります。
求められる能力が上がっていくので、一人前になる年齢が遅れるということです。
遊びの中でしか覚えられないこと
ではこのモラトリアムの間に、そんなに専門が大事だとか言われている中で遊んでいていいんですかとか、遊んでいたら自分は一人前になれないんじゃないかとか皆不安になります。
ただ、遊びの中でしか覚えられないこともあるので良いのです。
昔の子供たちよりも今の子供たちの方が小学校の時に学んでいることは多いです。
ただ普通に生活するだけでもスマホのことを覚えたり、いろいろなことを自然と吸収しているので、覚えていることもたくさんあります。
ただ、遊びの中でしか覚えられないことが、勉強もしているので時間が取れなかったりします。
遊ぶ時間が子供時代の前半にギュッと詰まっているのではなく、ゆるく延びているというのはあると思います。
遊びの中でしか非認知能力を上げることができなかったりもします。
例えば、うちの子供もそうですが、絵を描いたりとか、喧嘩をしたりとか、お母さんに怒られたりしています。
これは無駄じゃないかとか、絵を描かせたりとか走らせるのではなくて、漢字の勉強とかさせた方がいいんじゃないかとか思うかもしれませんが、多くの人はそうは思いません。
遊びの中で、絵を描きながら指先を使う力を身につけたり、かけっこをしながら走ることやコミュニケーション能力を鍛えたり、お母さんに怒られたりしながら自分の感情を調節する能力を覚えたりします。
それと同じで、一見若者が遊んでいるだけとか、何か無駄なことをしているように見えても、その中で育っているものはたくさんあると思うので、別に気にする必要はないよという感じはします。
ただ、ずっとスマホを見ているとか、ずっとだらだら受け身の状況で時間を無駄にしてるのはもったいないなという気もします。
スマホ依存みたいになってしまって、スマホで取れる情報を取っているのではなく、ただ時間を無駄にしている場合もあります。
それは自分の胸に手を当てて考えてもらってもいいのかなと思います、
僕はYouTubeを撮っているので他のYouTuberの動画も見ますが、やはり「遊びの天才」みたいな人たちがYouTuberになっていますね。
ゲームのYouTuberとか色々な人がいますが、YouTuberを見ていて思うのは、いわゆる一般的な社会では生きづらい遊びの天才の人たちがここで評価されているのかなとは思います。
社会がいま求めている、算数の能力、プログラミング的な能力とかそういうものは持ちにくい。
でも自分の長所を活かしたいという魂の響きみたいな感じします。
勉強はそんなに好きじゃないし苦手だけど、体を動かすのが好きという人がスポーツ選手になって、人間が持っているいきいきとした肉体を動かす喜びを表現したり、歌手が歌う喜びを表現するように、YouTuberも「遊び」の中でしか覚えられないことの表現者なんだなと思ったりします。
イノベーション
ただやはりそれだけでは僕は良くないと思っていますね。
なぜかというと、科学技術が生む生産力には勝てないのです。
どういう分野で仕事をした方がいいですかとか、将来どうしたらいいのですかとよく聞かれるのですが、やはりより科学的なもの、より科学技術を蓄えている企業に就職して、そこで学びながら一緒に成長していく、その業界で成長していくのが良いのではないかと僕はいつも勧めています。
科学技術が生む生産力、イノベーションによって生み出す生産力は圧倒的に大きい。
人間らしさが生む生産力はたかが知れているので、やはり科学技術を重視した企業に行くことが基本的にはとても重要だと思います。
共同体?
共同体の問題というのがこういう話をすると出てきます。
社会がなくなったとか、共同体が崩壊したからなんだとよく言います。
世間体というものがなくなった、村社会がなくなった、互いに助け合うというものがなくなった。
テレビとか、マスメディアというものが崩壊して共通する物語がなくなった、国民国家を信じられなくなったなどいろいろ言います。
確かにご近所づきあいがなくなって、助け合いの精神がなくなったというのはあるかもしれませんが、新しい形の助け合いを見つけなければいけません。
昔に戻れとか、ご近所付き合いで助け合いをしようというのはもう戻ってこないと思うので、そういうことを言うのではなくて、新しい形の助け合いを考えていくということが重要です。
好きなことをやる?
あとは「好きなことをやったらいい」と言いますが、好きなことをやることが僕は重要だとは思っていません。
好きなことを追求していくことが結果的に仕事になるし、結果的に社会に還元できるみたいな言い方をします。
ですが多くの人はそれではできないと思います。
アダム・スミスの「神の見えざる手」じゃないですが、好きなことをやっていることが結果的に社会全体を豊かにするんだという部分はもちろんありますが、皆が好きなことをやってもうまくいきません。
時々そういう人はいてもいいと思いますが、多くの人は好きなことというよりは、より安定したことや科学技術に関係するようなところ、より未来があるところ、より未来に投資できるところに身を置くことが重要かなと思います。
今回は、モラトリアムと非認知能力というテーマでお話ししました。
大人になる年齢が遅れてきているけれどそれはいいんだよと。遊びの中でしか覚えられないこともあるのでいいんだよという話をしました。
前向きになる考え方
2022.8.11