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生きる希望と死なない理由を教えてください。背景にある価値観などを、思想面から考える。

00:00 OP
02:06 抽象的な話題
07:19 病気は不運の連続で起きる
10:16 生きる希望、死なない理由を見出すには

本日は「生きる希望と死なない理由」というテーマでお話します。

ネットやTwitterなどでは「生きる希望がないです」「死なない理由がありません」と語られたり吐き出されていることがあります。
実際、書籍や文学では生きる希望や死なない理由について書かれ、それをテーマとして書かれているものはたくさんあると思います。直接的に扱われていることも多いです。

実際に精神科の臨床でそれを直接的に扱うことはあるのかというと、そんなにないです。
多くはないです。
医師自身も「こういう理由があるから生きる必要があるんだよ」「こういう理由があるから死んではダメなんだよ」とはあまり言いません。
精神科医の立場としては、死にたいと思っているときには何か病的なものがあるのではないかと考え、その治療をしていきましょう、と言います。
どうして死にたいと思うのか、それは何か問題があるからではないか、今困っていることがあるんじゃないか、と考えていきます。

ただ、そういうことを動画で話すと「益田は落ち込んだことがないからだ」「精神科医はそういうことを考えられない人間なんだ」「押し付けなんだ」「本当に不幸な人の気持ちなんて分からないんだ」と返されることも多いです。
今回はそこら辺のことも踏み込んでお話します。

抽象的な話題

そもそも生きる希望とは何か、死なない理由とは何か、というのは非常に哲学的で抽象的な話題です。
こういう話をしていくということは、治療的には正しくありません。
原則的には、具体的な障害や困りごとの解決が大事です。

眠れないから落ち込んでいる、眠れないから苦しい思いをしているのであれば、眠れない問題を除去する、抑うつであればうつの気分を除去する、パワハラがあるのならパワハラの解決、親子問題があれば親子問題の解決、虐待があれば虐待の解決を目指していくのが基本的な流れです。

どうしてかというと、哲学的な問題や抽象的な話をしていくということが医師の仕事ではないからです。
哲学的な話、抽象的な話というのは、現実的な問題や具体的な問題から目を背けるために、患者さんがそういう話題を振ることも多いです。

「そもそも生きる希望なんかないんです」「生きていることにみな等しく意味はないと思います」と言ったりします。
「それは勝手に作った常識ではないですか」と言ったりします。
実際のところは何か傷ついていたり恋愛の問題があったりして、彼氏がいても自分の気持ちをコントロールできずに大好きな人から嫌われてしまうとか何か原因があったりします。

実際の臨床の場面では、生きることには本質的には価値はないと言っている人も、何となく恋人ができたり幸せな人間関係ができたり、仕事が上手く行ったり誰かに認めてもらうということがあったりすると、本当の真意として生きる希望があるのかないのか、とまでは話すことはないです(話すこともありますが)が、何となく生きていけるし、無事回復してやっていく人が多いです。

病気の症状を取った後に、それでもなお障害が残る、働けない、生きがいがない、という風になってくると、それは医師の仕事ではなく福祉の仕事で、自助会などに相談してみたら、という形で医学の範疇ではないので別の分野にバトンを渡します。
これがスタンダードな医療だと思いますし、誠実な医師の行う仕事なのではないかと思います。

抽象的な話題や哲学的な話題をカウンセリングの中でしていったり、そういう話題が中心となる時期もあります。

患者さんの心が成熟するときに、抽象的な話題や哲学的な話題の時期を経ることによって、サナギから蝶になるときにサナギの中で一度身体がドロドロに溶けるような感じで、今まで生きてきた価値観をぶっ潰して変えてあげるためには、一回このドロドロを経験しなければなりません。
そういう意味において生きるとは何か、親子とは何か、死ぬとはどういうことか、仕事とはどういうことか、お金とは何か、嫉妬とは何かを語り合う場面もあります。

しかしそれは精神科の中の応用的な問題であって、基本は具体的な障害の解決であり、あまり抽象的な話になってくると「知性化」と言って、患者さんが目をくらましている場合が多いということになります。

医師自身も抽象的な話題は楽です。
ディベート、ディスカッションなので仕事した気にもなるし楽ですが、そういう共謀関係にならないことがとても重要だったりします。

と言いつつ、生きる希望や死なない理由は医療の問題ではないので自分で考えてください、ということになると、やはり患者さんは困ると思います。
僕も2022年3月24日から自助会を始めて、もうちょっと踏み込んで考えることが増えました。

精神科医やYouTubeで情報発信している僕がここまで踏み込んで良いのか、ということには賛否あると思います。
ただあまりにもやらないというのは不親切かなと思い、自分なりにこの話題を考えてみようと思います。

病気は不運の連続で起きる

僕が精神科のインフルエンサーとして世間に伝えたいことは何かというと、大きく3つあります。

一つは、病気は不運の連続で起きるということ、福祉の力を借りて森の外で暮らしても良いといういつも言っていることです。

もう一つは主観と客観の問題です。
主観的に考えていますが、一度客観的なものに置き換えて現状を正確に把握し、その上で物事に対処していこうということです。

三つ目は脳の特性です。
人間が持っている脳の特性や群れの特性を理解していこうということです。
色々な人がいますから、こういう特性のある人がいる、発達障害の人がいる、人格障害の人がいてそれは甘えではなく多様性、バリエーションの一種なんだということを理解してください、ということです。

今回は一つ目(病気は不運の連続で起きる)の話になります。

病気とは、健康からの直接の移行ではありません。
甲状腺機能低下症や難治性のうつ病、統合失調症、躁うつ病など健康な状態から直接病気に移行することもありますが、基本的には遺伝子+環境ストレスの合わせ技でなるといわれているので、一度ストレスの溜まる状況に放り込まれます。
それを僕は「不運」と呼んでいます。

不運が積み重なった状況に落ちてしまいます。
生まれつきの問題だったり体質の問題だったり環境の問題だったり、虐待の問題であったり、色々なものがあります。
そういうものが積み重なってついに病気のところまで落ちてしまう、ということです。

病気の診断をして薬を処方することで、病気から「不運」の状況に戻ります。
それだと症状を取り除いたというだけで、本当の意味で「満足した」という状況にはなりません。

ここからは福祉の仕事、自助会の仕事、自分の仕事ということで、医師は不運から健康、不運から共存へ移行する手伝いはあまりしません。
カウンセリングをすることで手助け的なことはしますが、もっと強引に引っ張っていくことはしません。

障害がある程度残ってしまう、病気があるから働けない人の場合、病気と共存して、健康な人たちが集まっている森とは別のところで暮らしていかなければいけません。
そういうことを「森の外で暮らす」と他の動画で言っています。

生きる希望、死なない理由を見出すには

では、みんなと違う場所で生きている人たちはどういう形で生きる希望や死なない理由を見出したら良いのでしょう。

多くの人から「お前は働けないじゃないか」「お前は病気だからダメなヤツなんじゃないか」「恥ずかしいヤツだ」と、言う方がおかしいのですが、言われてしまいます。
そういう人たちがどうやって自己肯定していくのかということがとても重要ですが、これを医師が言うことはありません。
あなたはこうだからこうだよ、とは言いません。

それはなぜかと言うと、医療の範疇を超えており、そういうことを言うとあまり治療的に上手く行かないことがあるからです。
価値観が反映することなので、僕の価値観と患者さんの価値観は違うと思いますし、こちらの価値観を押し付けることが患者さんにとっては苦しいことであったりします。
ですから、こういう理由があるので生きる希望がある、死なない理由なのだとは言いません。

と言いつつ、価値観が無限にあるかというと無限にはありません。
人間の価値観は既存の価値観に強く影響を与えられるので、ざっと挙げるとこのような価値観に影響されます。

欧米であればキリスト教、イスラム教、哲学の中でも実存主義の影響を強く受けますし、日本だと仏教、禅、神道、自然、武士道などの「道」、職業を極めることが生きがいだとか、儒教、親子や君主関係が大事、世間体が大事ということが価値観となっていくのかなと思います。

生きる意味は何かというと、神様のために生きる、実存的なもののために生きる、ただ生きていることそれ自体に価値があるということを理解していく。
諸行無常、仏教的な生きることにも死ぬことにも価値がないので取りあえず生きようということであったり、周りの人に迷惑をかけてはいけない、僕らは自然の一部だから愛されている。
仕事のために生きる、芸術のために生きる、何かを極めていくことに対して意味がある、オタク道、映画道、何でもよいのですが趣味に生きる。
親や先祖に迷惑をかけてはいけない、子どもに迷惑をかけてはいけない、彼らのために何かを奉仕することは素晴らしい、世間や社会や国家に対して何かを提供していくことが正しい、自分が死んだら周りに迷惑をかけるからダメなんだ、という理由なのかなと思います。

欧米の人だとキリスト教的なものや実存主義的なものが中心。戦前の日本人なら仏教や武士道的なもの、戦争中は国民国家ですから天皇が一番で、日本が大事だという価値観に染まっていた。欧米からキリスト教的なものも入ってきて欧米よりもグチャグチャしています。
死なない理由、生きる理由、そういう哲学的な話題を語ることが妙に恥ずかしい、禁止されているのが日本の特徴でもあるのかなと思います。

実際に儒教的なものというときには、孔子は、今忙しいのにどうして死後のことまで語る必要があるのか、老子や荘子もそうですが、死後についてはわからないのにわからないことについて語ることは野暮である、ということも多いし、仏教もそうです。
防衛的悲観主義という形で、死ぬということに対する意味はないんだから、逆説的に意味のないことはやめようという感じで理解されることも多いかなという気がします。

神様も信じられないとすると生きる希望は持ちにくいかもしれませんし、死ぬことにも意味がないから生きることにも意味はないだろうという形で何となく生きていくと、あまりにも生きている状態が辛いので、じゃあ死んでも良いじゃないか、ということにもなります。

所属意識、世間から爪はじきにされているのに、どうして自分たちが社会に対して恩恵を与えようと思えるのか。
福祉の力を借りていてありがたいと思いつつ、それを返すことができない自分たちは申し訳ないから、死んだ方が良いんじゃないかというのは所属意識の問題もあるのかな、という気はします。

ここら辺はいつも考えますが難しいです。
ただこれらの中で好きなものをきちんと勉強していけば、自分たちが死ぬべきではない、生きていく希望がある、価値があるというのはわかります。

中途半端な知識だとわかりにくいですが、きちんと理解していくと、福祉の力を借りている自分たちが生きていくことの価値はわかりますし、過去の人たちがすごく悩んで絞り出した答えがあり、それを今でも多くの人が紡いでいるということの奇跡というか価値に感動できるんじゃないかと思います。

そういうことを言ってもすぐには理解できないと思います。
こういう感情的なもの、感動するということは、やはり訓練が必要です。
絵画でも映画でも、見て美しいとか素晴らしいと思うためには、訓練が必要です。
基礎教養や経験が必要です。
美味しいものを食べて美味しいと思うためには舌の訓練が必要だし、スポーツでもそうです。言われたからすぐできる、わかったからすぐできるというものではなくて、生きる希望や死なない理由を体感的に理解するためには、学習というものがとても重要だったりします。

テキストを読み続けるということもそうだし、実践の中で、日々の暮らしの中で、治療者との会話の中で、こういうものを理解し勉強し、治療者に聞いて問い直していく中で、自分は社会、世界の一部であり、たまたま不運によってこういう病気がもたらされたかもしれないけれど、それにも何か意味があるんだ、そしてそれは誰かのためになっているんだということがわかるんじゃないかなと思います。

ちょっと抽象的な話なのですが、こういうものを勉強してもらうと良いのではないかと思います。
基礎教養はとても重要です。
若い人は特に興味をもって読んでもらえたらなと思います。


2022.8.12

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