今日は「昔、通院していた患者さんたちへ」というテーマでお話ししようと思います。
昔通院していた患者さんや別れた人に対して僕らはドクターというか、僕はどういうふうに考えているのか、ということを何となく語ってみようかなと思います。
YouTubeを撮っていると、「昔、益田先生にかかってました」という患者さんからのコメントをもらうこともあれば、「突然病院に行かなくなってすみません」「薬を飲むのが嫌になって行くのをやめちゃったんですけど、先生は怒ってますか」など、先生というのは僕であったり別の主治医の先生かもしれないですが、いろいろなことを患者さんは思うみたいです。
医師と患者さんの関係というのはなかなか想像がしにくかったり、わかりにくいことがあるようですが、例えがなかなか難しいですよね。
僕は今お酒を飲まなくなりましたが、昔はよく飲んでいたので馴染みの店とか行くわけです。
そうすると、常連として店長さんと喋ったりとか、よく来るお客さんと喋ったりもしていましたけど、そういうものに精神科の医師と患者さんは似ている気もします。
もちろんそういう飲みの場では話せないようなことを話すので、もっと親密な感じもします。
かといって飲みの場は長いじゃないですか。
1時間とか2時間とか場合によってはいますが、診察室で5分など短いからそんなに深い関係じゃないような感じもするかもしれない。
プライベートまでどこかに行くわけでもないからなどいろいろ思うかもしれません。
でも僕らも人間なので、患者さんのことはよく覚えています。
患者さんが考えているほど僕らは他人ではない。かといってすごく近い距離ではないですね。
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淡々と事実を受け入れる
僕は来なくなったからということで患者さんを怒ったり、別の病院に行くんだと思って裏切られたとかそういう感じで怒っていることはないし、逆にうまく治療ができなかったなと思って過度に罪悪感に苦しんでいることもないです。
ただ事実を淡々と受け入れているというか、そういうこともあったなと考えたりします。
空いた時間とかに、昔診ていた患者さんとか、そういえば最近この患者さん来てないなとか、ふと立ち止まって思い出すことはあります。
ぼんやり考えていくと、その患者さんのカルテを見ることもあれば、カルテを見ずに自分の中でやりとりを思い出してみたりとか。
そうすると「想い出」の世界に浸ったり。
その時にわからなかったこと、科学的にわかっていなかった、医学的にわかっていなかったことや、僕が経験不足でわからなかったことが、大人になってから過去を振り返ると、「あの時、ああ言ってあげたらよかったな」とか「ああいうふうに診断して、ああいう治療をすればよかったのかな」と思うこともあります。
いろいろなことを考えたりとかグチャッとしています。
グチャッとしたものを思い出して物思いにふける感じはありますね。
統合と消失
でもそれは別に臨床をしているからということではなくて、患者さんとドクターの関係ということでもなく、皆さんにもあると思うんですよね。
昔の友達とか、昔の職場の人、別れた彼女や恋人のことを思い出す時というのは、あるがままを思い出すというよりは、作られた思い出というか加工された思い出になっているんじゃないかなと思います。
そういうものを思い出して浸ったり悲しんだり喜んだりしつつ、次に活きるような統合と消失をしていくような感じがあると思います。
こういうものを「チューニング」とか「プルーニング」と言ったりします。脳科学的には。
こういうふうに頭の中を整理することで人間理解が深まり、今目の前にいる人がどういう風に考えているのか、どういうことを考えているのか、次にどういう行動をするのか、どういうことを言ってあげると喜ぶのか、ということを予想・予測する精度が上がっていくということです。
いろいろなことを考えたり思ったりする。
脳の中にはそういう風に蓄積されて、その人の人間の情報というのが記号に変わっていく、もしくはその人間のままで生々しく動き続けるような、不思議な感覚というのはあります。
これが発達障害の人と定型の人の違いだと思います。
あとはトラウマと普通の人の違いだと思います。
生々しい記憶として残るというよりは、どこかぼんやりとしつつ加工されていく。
統合と消失というか、何か変わっていく感じというのはありますよね。
別れ、死、時間
今日はぼんやりした話が多いですが、別れのことや死ということ、時間というものについて思いを馳せていく感じはあります。
そして自分の自意識さえも、この想い出が薄れていくように、過去の記憶が薄れていくように、自意識というものも自分自身というものも変わっていくし、失われていくし、そういうことがわかるんじゃないかなと思います。
この前もYouTubeLiveで話したのですが、毎晩死んでいるんですよね。
夜眠るという行為は死と似ていて、意識を失っているわけです。
死ぬことを擬似的に体験していて、そして復活するということを擬似的に毎日体験しているんです。
眠りというものを感じたりとかあとは忘却ですね。
忘れるということは部分的に自分を殺しているし、失っている、変化していることでもある。
自分はゆっくりと死んでいるんですよね。
ゆっくりと死んでいるということを経験していく。
その意識の変容を追いかけていくと、自己中心性、自分を失いたくない、自分を変えたくない、自分は死にたくないという自己中心性から離れていく。
自己中心的な考えとは逆のものを理解していくことができるのではないかと思います。
瞑想やゾーン、無我の境地と言いますが、そういうものは確かにすごく重要だと思いますし、訓練で身につけば良いと思うのですが、そんなことをしなくても、僕らは日々無我の境地というのを味わっていたりします。
アルコールを飲むことで意識が変容していくこととか、幻覚剤とかそういうドラッグを使うことで意識が変容していくこと、恋愛をすることで意識が変容していくこと、さまざまな形で僕らの自意識というものは揺らぐし、変わっていくのです。
もちろん精神疾患もそうです。うつとかもそうなんです。
そういういろいろな要素、脳内で起きる脳内麻薬のことを観察しながら、自分とは何なんだろうとか自意識とは何なんだろう、そして患者さんはどういうことを考えていたのかなとか、あの時のことはどうだったのかなとか、いろいろなことを僕は考えたりします。
想い出に浸るというのはそういうことですよね。
そういう楽しみですね。
患者さんは罪悪感を感じたり、もしくは昔の主治医に対して怒りを感じているかもしれないですが、僕らは大事に思っているという感じです。
大事に思っているし、また来てもらえたらなといつも思っています。
今日も臨床を頑張ろうと言いながら想い出に浸ったあとに、目の前のことに集中していくのですが、時々思い出に浸るということはやります。
今日は、昔通院していた患者さんたちに対してどういうことを考えているのか、というテーマでお話ししました。
心について考察
2022.9.14