本日は「親が厳しくて、その結果何々すべきだ、いつまで経っても満足できない、白黒思考になってしまった人の話」をします。
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先日のワークショップで
先日ワークショップをやったんです。
予測する脳に基づいたワークショップ、患者さんに向けたワークショップをやったんです。
そこで色々な人の悩みを聞きました。
私は「べき思考」なんです、自分を許すことができないんです、自分は本当はこうしなきゃいけないのにやれていなくて自分が情けないと思ってます等、色々な意見を聞きました。
〇〇すべきなんだと思ったり、飽くなき向上心。終わりがないんです。
これが出来たと思っても次はこれをやらなきゃ。
なぜそこまで頑張らなきゃいけないのかなと第三者視点からは思うのですが、その人たちは、これが終わって、でもこれもやらないと、あれもやらないとと思って、飽くなき向上心に苦しめられているということです。
やはり現実というのはそこそこで良いし、みんなが成功者になれるわけでもない。
成功者の定義はよくわからないですが、勝負に勝てるわけじゃないので、半分の人が勝ったら、半分の人は負けるので、常に勝つことはないじゃないですか。
そこそこ生きていって幸せだったら良いんじゃないかなと思うんですけど、やっぱりそれだと満足できない、満足しちゃいけない、という思い込みがあるみたいです。
部屋をもっとキレイにしなきゃいけない、もっと働かなきゃいけない、空いた時間は資格の勉強をしなきゃいけない、と思っているようですがなかなか出来ない、と。
その結果、自分を責めちゃうみたいなんです。
自分を責めてしまって、自分を責め疲れちゃうんです。
「私ダメだダメだ!」と言って責め疲れてしまって、結果動けない。
動けないから、また自己嫌悪が始まる、ということみたいです。
自分のことを愛せない、自己嫌悪があるから不安障害とか「私は発達障害かな」とか。
結局また「自分はダメなやつだから、もっと頑張らなきゃ」と思うようです。
厳しい親だった
よく聞くと、背景には「厳しい親だった」という人が多いです。
親が厳しかったから、それが取り込まれちゃうんです。
厳しく育てられているから「ちゃんとやらないと!」と思ってしまうみたいなんです。
こういうのを「超自我」と精神分析というか精神科の中で言うのですが、親が厳しかったせいで、超自我が強すぎたりするんです。
大人になってから「私、昼まで寝ちゃったんです。子どもの時だったらすごく怒られていたのにな」とか。
僕は自衛隊にいたときは6時半までに起きなきゃいけなかったんです。
何か良いことをしたり、体育祭で優勝したりすると、朝点免除と言って朝の点呼は免除になって6時半よりももっと遅くまで寝ていられるんです。
今は自衛隊を辞めたので朝点はないんです。
毎日好きな時に起きれるな、幸せだなと思って自分を責めることはないんです。
自衛隊の時みたいに自分は6時半に起きなきゃと思ったことは1回もないです。
「やったやった」と思っているだけなんですけど、そう思えない。
それが精神疾患たるゆえんでもあるし、障害ということなのかな、と。
僕は大人になってから自衛隊に入ったのですが、人によっては3歳や5歳のときから厳しく育てられてなかなか抜けないということなのかなと思います。
そういう親が今目の前にいなくても、僕でいう自衛隊のルールがもうなくなっても、まだそのルールに縛られているというのが超自我として取り込まれるということだったりするということです。
今でもなおそこを許せずに、自分で自分をいじめているという状況になっているということです。
治療
なぜ親が厳しかったか、ということを掘り下げていくというのも治療の一つではあります。
その人が発達障害だった場合、ASDやADHD傾向があった場合、育てにくい子どもだったからこそ、親は厳しく育てたというのもあると思うんです。
厳しく育てないと衝動的にどこかに行っちゃう、そういう子どもだったら、親はしつけという意味で厳しく育てざるを得なかったということもあるかもしれない。
逆に親自身も発達傾向があったら、こだわりが強くて子どもに対して自分のこだわりに巻き込んでしまったかもしれない。
子どもが不安障害か何かで育てにくい子どもだったから、親が厳しくなったかもしれないし、親も不安障害の傾向があったから、不安だからこそ、子どもにすごく厳しくしないと、これを教えてあげないと、という形で厳しかったのかもしれない。
あとはあってはいけないけれども、親が子どもを私物化していたパターンもあると思うんです。
子どもは言うことを聞くのでコントロールしやすいんです。
自分で考えた最強のパーティみたいな、最強の育て方、自分はできなかったけれど、それをやっちゃうみたいなことがあるじゃないですか。
教育的虐待やスポーツの虐待、エンタメ業界の虐待というのは正にそれです。
子どもの時からあれぐらいみっちりやっておけば、今頃自分は世界一の選手だったのに、エンターテイナーだったのにという形で、子どもにそれを押しつけてしまう。
多くの親は最初それをやっているけれども、途中でやめるんです、子どもがかわいそうで。
だけどそこを無視してやらせ続ける親もいなくはないということです。
育ちの問題? 生まれの問題?
育ちの問題なのか、生まれの問題なのかというのは常に議論になりますけど、結構ここは難しいんです。
子どものときに高ストレス状況にあったりすると、ある種の脳の萎縮とは言わないけれども、育ちにくさというのは実験上確認できたりもするし、それが複雑性PTSDという形のものもあれば、そうはいかない、不安になりやすい、不安障害になりやすい、うつ病になりやすいということなのかもしれないです。
ここら辺のメカニズムはよくわからないです。
高ストレス反応でどういう風に育つのかはなかなか研究しにくいです。
どうやって観察していくのか、どうやって実験データを取っていくのかというのは結構難しいのでわかってないです。
でも何らかの脳に影響があるんじゃないか、ということは言われています。
そもそも親自身が子どもの教育の中で多様性や創造性を認めない。
こうすべきだということがあるので、結果的に多様性や創造性を育む時間がなかったんです。
多様性や創造性を育む時間がなかったので、大人になってからsも「べき思考」になっちゃう、向上心を持ち続けなきゃいけない、そういう風になってしまうことがあるのかなと思います。
治療すれば良くなっていく
じゃあ治療ができないか、子どもの時にそうだったから、大人になってから治療は全然できません、そういうことは全くなくて、ちゃんと治療すれば良くなっていきます。
「べき思考」をどうやって治していくのか、どうやって現実を受け入れていくのか、自分の想像の世界、脳内をどうやって現実に近づけていくのか、というのが治療の焦点になります。
結局は自分を許したり、受容したりするということです。
自分を認めてあげる。
ダメでもいいじゃない?みたいなことです。
ただ「ダメではダメなんだ」「弱いということはダメなんだ」と思っている。
「益田は弱さを知らないだろう、お前が俺の立場だったらどうなんだ」とよく言われます。
その気持ちもわからなくはないんですけれども、優生思想に支配されてしまっている。
障害がある、病気がある、ということを説明してることそのものがそもそも優生思想の表れなんじゃないか、そういうことを言われたりします。
人間の尊厳
ただやはりそういう議論はさておき、人間の尊厳ということを考えたことがない、教育を受けたことがない、そういうものを信じられない、という人が多いんだなというのは、最近僕も気づきました。
何で治療が上手く行かないのか、何で現実を受け入れられないか、というときに、そもそも楽観性が足りないというのもあるんだけれども、尊厳ということをあまり教育の中で受けたことがない、身についたことがない、そういうことなんだろうなと思います。
自分とは全く違う人で、自分とは関係ない人に対する感動、感謝の気持ち、そういう体験や経験というのができなかった、無償の愛や何かそういう素晴らしさがちょっと不足しているんだろうなと思います。
「良い対象」と精神分析ではよく言われるんですが、良い対象とのふれあいや、良いものとの経験が足りなくて、悪いものとの経験が多かった、良いものがあったんだけれど、良い対象といたんだけれども見えてこなかったということなのかなという気がします。
YouTubeやエンタメの世界には、良い対象よりは、どちらかというと契約関係に成り立つような、資本主義の論理で成り立つような、これをくれたらあれをあげるよ、みたいな関係ばかりがもてはやされがちです。
「強い」というのはどういうことか、「強い」や「愛される」など、勝者を刺激する、負けている人たちを刺激する、不安を追い立てるようなメディアや情報源が多いんです。
そういうものの方が視聴回数を稼げるから。
でもそうではなくて、扱うのは難しいし表現するのは難しいし、人間の好奇心をそそらないんですけれども、人間の尊厳を伝えていく、それを理解してもらうメディアというのも大事なんじゃないかなと思います。
こういうことがわかれば、おのずと「べき思考」は減っていくと思いますし、自分を受容していく、許す、他者を許すことが出来るんじゃないかなと思います。
今回は厳しい親に育てられたがゆえに「べき思考」になってしまった、という人の解説です。
これは別に絶対そうだってわけじゃないんですが、ある一例を描写してみました。
親子問題
2022.12.8