本日は「なかなかよくならない患者さんの特徴」というテーマでお話しします。
精神科の患者さんは良くなるのに時間がかかります。
とてもかかります。
救急の1時間、内科の1日、精神科の1ヶ月と言ったりするんです。
救急現場では1時間単位で変化することが、内科の病棟では1日がかりで変化する、そして精神科だと1ヶ月がかかるよ、という精神科医を揶揄したような言葉だったりするのですが、間違ってはないです。
当時はわからなかったけれども、この言葉の意味は何年も臨床をやってると噛みしめる機会は多いです。
例えば野球のペナントレースってあるじゃないですか。
あまり野球のことを知らない方が多いかもしれないですけど、ペナントレースにおいて、優勝チームの勝率は多分6割から6割半ぐらいなんですよ、全体シーズンを通して。
逆に最下位のチームは勝率4割くらいだったりするんですね。
数試合単位だと有意差がよくわからなかったりするんです。
でも年間を通して見ると、差がわかってくるということなんです。
中長期的に見なければわからないですよ、ということなんです。
精神科もそういうところがあって、波があるんです。
良くなったり、悪くなったりを繰り返すんだけれども、割と長い目で見なければいけないです。
ペナントレース以外にも麻雀とかポーカーとか最近だとポケモンとかですね、1試合1試合は運の要素がすごく絡むんだけれども、長い目で見たときには実力差が出る。
精神科の問題というのも似ていて、瞬間瞬間は様々なファクターが絡み合うので、脳の問題なのか、相手の問題なのか、環境の問題なのか、色々なことを考えるんだけれども、中長期的に見たときには、やはり本人の病気の要素、本人の特性の要素、本人の遺伝的な要素、本人が抱えている構造的な問題というのが見えてきたりします。
長い時間をかけないとわからないものでもあるし、長い時間をかけないとその問題に対してアプローチできないというのも精神科の特徴です。
コンテンツ
時間をかければ確実に良くなる?
問題点がわかりました、長く時間をかけたら確実に良くなるんですか? と言われても、またちょっと返答に困るんです。
2つの要素があって、良くならないと言っても機能として良くならないというものももちろんあるんです。
脳みそというのは脳の神経細胞の集まりで、脳の回路を作っているんです。
色々な回路を作っていて、それが複雑に絡み合うことで1つの臓器として成り立っているのですが、ある1つの回路に異常があった場合、それが1つの機能の劣性というか弱さにつながってきます。
例えばうつ病であれば、セロトニンに関係するような神経回路がやられてしまうんです。炎症によってやられてしまう、弱くなってしまう。
その結果、抑うつ的になる。
機能として感情系の機能がやられてしまうんです。
元気が出ないとか、意欲が出ないという機能低下が起きてしまいます。
これらは休養や療養によって回復していくんです。
セロトニン再取り込み阻害薬SSRIなどを飲むと、その回復が早まるということがわかっている。
だからうつ病はそういう機能回復の要素はある。
だけど一度やられると、やはり再発しやすかったりします。
もちろん再発せずにそのまま良い状態を保てる人もいるけれど、一度やられてしまった回路、一度弱くなってしまった回路は再発を繰り返しがちだったりします。
あとは統合失調症の幻覚妄想状態というのもドパミン系の回路の異常ですし、そこは薬物治療によってキープしてあげなきゃいけないことも多い。
双極性障害においても気分の安定効果は弱いので、薬を飲み続けることで再発を防ぐ必要があったりします。
機能は回復するんだけれども完璧には回復しない、というものも精神科の中にあります。
ただ、完璧に近いほど回復するものもあって、適応障害であれば比較的浅い段階では良くなっていくし、子どもの時の発達障害、虐待などの影響で一時的に発達が遅れている場合は、療育環境を整えてあげると回復していくということがわかっています。
人格障害のものや知的能力の問題、発達障害の問題というのは薬を投与したりトレーニングを積んでもなかなか100%母集団に追いつくのは難しかったりします。
そういう側面もあるでしょう、ということかな。
産後うつ病であればわりと早く回復するなど、色々ありますが、やはりなかなか病気を完全に治すのは難しいんです。
医学はまだそんなに進歩していないんです。
がんは取っているだけなので、究極的に言ったら。
そんなすごいことをやっているわけじゃないし、あとは自己免疫力で何とかしていることは多いんです。
骨折は良くなったりしますけど、でも高血圧や糖尿病はなかなか良くならないです。
薬で維持していくという感じなので、精神科もそういう要素はありますよ、ということです。
内的世界の充足を目指す
機能が回復しなければ僕らは回復したと思えないのかというと、そういうわけではありません。
脳の中では、機能の複合的な要素によってバーチャルリアリティの世界を作っているんです。
僕らはあるがままを見てるわけじゃないんです。
目から入って来た視覚情報、耳から入ってきた音の情報、皮膚など五感から得た情報、そして過去の記憶や知識をもって一回脳の中で再構成されている。
その再構成された世界から色々判断して考えたりということを、脳神経科学者は考えているんです、今は。
そういうものを「予測された世界」と言ったりします。
脳の中で常に世界を構築し、次に何が起きるんだということを予測し続けているんです。
その予測された世界の中で振る舞っているんだけれども、その外界とのズレを感じたときには予測を修正したりするということがわかってきているのですが、とにかく頭の中に世界を作るわけです。
この世界に対して、やはり認知の仕方があるわけです。
自分が考えている世界があったときに、捉え方ひとつで結構変わるんです。
心のあり方で結構変わるんです、人間というのは。
自分はお金持ちになってないんだけれども、周りの人の所得が下がるとすごくお金持ちになった気持ちになる。逆もしかりです。
自分はすごく満ち足りているのに、食うに困っていないのに、周りの人がお金持ちで欲しいものを持っていたりすると、すごく自分が貧しいんじゃないかと思ってしまう。
自分は優秀であるのに、仕事もあるのに、周りがもっと優秀だったり東大へ行ってるとかそんな感じだと、自分はダメな奴なんじゃないかとか思ったり、そういうところはあります。
機能の問題ではなくて、内的世界の充足を目指すというのも、精神科の治療のひとつなんです。
たとえ機能の回復が不十分であっても、内的な世界が充足されていれば、人は治ったと思うというか、まあ仕方ないなと受け入れて次に進むことができます。
医学、科学だけではどうしても救えないものがあります。
それに対してでも違うんだよ、ということです。人間ですから僕らは。
医療とは「仁術」なので、やはり内的な世界の充足を促すためにどうしたらいいんだろう、ということを考えて、それを言語的な介入によって相手に伝えていくということをしていきます。
良くならない患者さんの特徴と言いましたが、基本的には良くならないものはたくさんあって、でも本当に良くならない人というのは内的世界が充足しにくい人たちのことを指します。
僕の動画をずっと見てくれてる方、熱心に見てくれてる方はよく考えると思いますし、わかっていらっしゃるかもしれないですが、努力さえ遺伝子で決まったり、環境の中で決まっていくんだから、内的世界の充足と言ったって、それは僕らの個人の努力や頑張りでできるんですか、と言ったりします。
益田は良い子ぶってるんじゃないのか、そもそも謙虚でいられるというのも遺伝子で決まるんじゃないの、足ることを学ぶというのも知的能力の問題なんじゃないの、ひいては遺伝子の問題なんじゃないの、と言われそうです。
たとえそうであったとしても、そこに向かっていくということしか僕らはできないし、そこに挑んでいくことが人間の尊厳なんじゃないかなというのはよく思います。
皆さんはこういう話をされたら、バカにしてるのか、と言うかもしれないですけれども、僕はお釈迦さまの話で「茗荷(ミョウガ)」というお坊さんの話が好きなんです。
茗荷という方はちょっと頭が弱かったみたいですね。
知的能力が低い方だったようです。
他の人のようにお経を覚えたり、作法、仏法、仏祖を学ぶことが苦手だったようです。
ロジカルな哲学、言語的能力を求められるもの、難解なロジックを理解していく、仏教的な哲学や世界観を理解していくことも難しく、そしてその中の人間関係で上手く振る舞ったり、政治的なやりとりをすることも苦手だったようです。
茗荷さんは「僕は悟れないんですか?」とお釈迦様に聞いたみたいです。
そしたらお釈迦様は「あなたができることをやりなさい」とほうきを渡したらしいんです。
渡された茗荷は、最初めちゃくちゃ怒ってたみたいなんです「何なんだ、バカにしやがって」と思って。
だけど何か考えがあるかもしれないということで、熱心にほうきを持って掃除をされたそうです。
今でいうマインドフルネスに掃除を続けたそうです。
その結果、茗荷というお坊さんは色々な人から尊敬されるお坊さんになったみたいです。
それは新しく仏法を拓いたとか、理解したとか、上手く振る舞えるようになったとかそういうわけではなくて、今自分ができることをただ続けていたという行為に人の心を動かす何かがあったり、人の弱さ、人の苦しみを救う、エッセンスがあったんだろうと思います。
今の言葉でいうとマインドフルネスと言うし、マインドフルネスな態度や行動が他の人々に感動を与えた、みたいな言い方になるのかもしれないですけれど、でも僕はそういう言い方もわかりやすくて好きですが、やはり人間の尊厳というものを考えて、お釈迦様がその人ができることをして、そして茗荷さんもお釈迦様の言うことを信じた。絆や信頼関係、ひたむきさ、そういうものが美徳として美しかったのかなとか、色々なことを考えます。
とにかく内的な世界の充足というのは、どういう言葉で表現するのか、どういう形で理解されるかは別に正解はないと思うのでいいのですが、そういうのを目指すというのは大事かなと思います。
一番大事なのは、治療者側も治療を受ける側も、内的な世界は充足するんだ、ということです。理屈じゃないところというのはどうしても臨床で必要になってくるなと思います。
「益田、お前は宗教なことを言うのか」とか言われそうですけれども、そういうのってあります。
同じ空気を吸い続けること
やっぱり患者さんを見ていていつも思うんですけど、通院を続けて行くことや一緒に同じ空気を吸い続けることというのは、理屈を超えて、やはり彼らの心を癒していくなというのは思います。
それは自信を持って言えます。
治療を投げ出さず、薬は辛いけど飲み続ける。
薬は辛いから飲み続けられなかったけれども通院を続けてきた、ということは決して意味がないということはないです。
色々な要素がありますが、色々な能力が鍛えられてきますし、そして内的世界の充足につながります。
僕が子どもの時と今とは違うなと思います。
30年前、40年前とは全然違います。
その頃はやっぱり師弟モデル、スターウォーズみたいな世界観、親子モデルというのが強かったんです。
でも現代というのはやっぱりちょっと違うなと思います。
師弟モデルとか、親子モデルのような形の中で、絆の中で良くなっていくもの、さっき言ったお釈迦様と茗荷さんのような結びつきの中で良くなっていくということを昔は語られてたんだけど、現代は違って、複数のメンターと複数のコミュニティに属しているということがいいんじゃないかなと思います。
茗荷さんもお釈迦様だけじゃなかったと思うんだよね、兄弟子がいたり、弟弟子がいたり、時には意地悪なことをしてくる人もいたり、一緒に掃除をする人がいたり。
意地悪なことをして来た兄弟子に対して立ち向かってくれる兄弟子がいたり、色々なメンターがいたと思うんです。
お釈迦様の教えだけで、茗荷さんが悟りに至ったとは思えません。それは僕らもそうですから。たぶん違うだろうなと思います。
お釈迦様という存在はありつつも、色々な存在があっただろう。そして現代は特に、絶対的なカリスマというものが存在できない時代ですから、より複数のメンターを持つことは重要だと思います。
絶対的なカリスマを持っていないことに対して恐れる必要はないと思います。
複数のコミュニティに属しているというのも今の良さであり、強みです。
師弟・親子モデルだと、やはり失敗したときに大きいんです。
良い指導者がいなければ悟れないというパターンでもあるので、色々なものを吸収して良いとこ取りをして、無秩序の中から秩序を作っていくことが現代的だと思いますし、変化にも強いかなと思います。
そういうところを目指して行く、通院を続けながらも色々なエッセンスを受けていく。そして治療者の中で、益田は価値がないなと思いながらも続けてますよとか、益田先生より誰々先生の方がいいと思うんですよ、先生はどう思いますか、とか、益田先生も一緒にこの本を読みましょうよとか、そういう形でいいんですよ。
僕のことを絶対視する必要は全くなくて、色々な先生の話をしたり、色々なことを語りながら、複数のメンターを持って、複数のコミュニティに属しながら治療が進んでいけば必ず良くなるんじゃないかなと思います。
万能な人間像
万能的な人間像をやはり僕らは持ってたと思います。
フロイトのときはそうです。
フロイトのちょっと前、人間の万能感というのがあって、だけど何度も何度もその万能感というのは打ち砕かれて、ついには戦争を起こしてしまうわけです。
フロイトというのは、人間が万能だと信じられてるところに、いやいや実は違うよ無意識ってあるよね、メンタルが病むということあるよね、と言うわけです。
面白いですよね。
かと言って、無力感とかニヒリズムに走るわけではなく、複数の他者とのつながりの中で意味があるんだよ(ということをフロイトは言ったかどうかはアレですけど)、そういう流れに今の医療はなっているんじゃないかなと思います。
すごい論が飛んじゃいましたけど、でも僕も本当にそう思います。
僕自身もその万能な人間像というものを思っていましたし、それに憧れたり、そこに及ばないという形で勝手に挫折したり、自分には才能がないんじゃないかとか勝手に思ったりしました。
少しでも欠けていることが愚かで恥ずかしいことなんだと思ったし、強くなりたいと思って自衛隊まで入ってますから。
そんな感じの人間でしたけど、今はそんなことないなと思います。
当たり前だけど、そんな万能な人はいないし、色々な個性があって多様性があって面白いです。
それが人間の社会を作っているし、小さくまとまらないというか良さだと思います。
複数の他者とのつながり
ちゃんとできないんだからみんなダメなやつなんだ、というニヒリズムはあまり次の答えには結びつかないので、そうじゃなくて、複数の他者とのつながりを持ってやっていくというのがいいなと思います。
それは僕もYouTubeをやりながら、コメント欄を見ながら本当に学ばせてもらったという気はします。
僕は色々なことを言っていて、益田は何か言ってそうですけど特に何も言ってないんです。
本当に何もやってなくて、普通にあるもの、そこら辺にあるものを取ってきて、さも自分が発見したかのように喋ってるわけです。
YouTuberってそういうことですから。
アイツは全然研究しないのに、アイツ全然論文読んでないな、論文書いてないな、アイツは何も知らないな、素人のくせに政治の話をしてるな、素人のくせに心理学から何から色々喋ってるな、とみんな思うと思いますけど、そうなんだよね。
本当にそう思います。
僕は何もしてないです。
だけどみんなが集まる場所を作っているというのが、まあそうだと思います。
結局色々な患者さんがいて、インターネットを通じて本来つながらなかった人がつながるようになってきたんです。
治療者の独断的な意見ではなくて、色々な人の意見、色々な人の見方を学ぶというのがやっぱり一番いいんじゃないかなと思います。
素材のまま食べた方がいいんじゃない?みたいな。
塩が一番おいしいよね、みたいな感じです。
本当にそういうことがインターネットでできつつあるので、もちろん垂れ流しとか、素材に手を加えないのがいいわけじゃないとは思いますが、できるだけ生のもの、食材の良さを活かせるようなコミュニティとかインフォメーション、コンテンツを作っていきたいなと僕も思っています。
すごく話が拡大してしまいましたが、話をまとめると、なかなか良くならない患者さんというのはいます。
特徴としては精神疾患であるんだけれども、機能的な回復というのは限界があるし、機能的な回復ができるというのは病気のごくごく一部です、精神科の中の。
ということは、良くならない患者さんの特徴というのは、内的な世界が充足できない人ということになります。正確に言うと。
機能的に100%回復しなくても満足する、100%回復しなくてもそれなりに自分の個性を活かしていくことは、多くの人はできている。
それがなかなかできないというのは、内的な世界が充足できないからです。
内的な世界が充足できないのはなぜかというと、師弟モデル、親子モデルに縛られて、複数の人間、複数のメンターを持つことができていないからです。
なので複数のメンター、複数のコミュニティに属せるように、僕はそういう仮説、考えのもとでYouTubeをやったりコメント欄を開放したり、オンライン自助会をやったりしている。
それは別に僕の意見を言いたいとか、僕の考えだとかではなくて、素材のまま本当は提供したいから、できるだけ害がない形で素材を提供できるように今、工夫してるんだよ、ということです。大丈夫ですかね?
今回は、なかなか良くならない患者さんの特徴、というテーマでお話ししました。
前向きになる考え方
2023.2.10