今日は、心の病気について考えてみようと思います。
雑談会が続いてますけどご了承ください。
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ガチだと何?
僕自身は自分が子供の時や高校生の時に、心は何か、脳とは何かということにすごく興味がありました。
小説、音楽など何かを見ていても、結局は「心」や「人間」というものの問いに辿りつくというか、その中で「本物は何なの?」というのが結構ありました。
アートでもなんでもいいんですけど、彼らが何か語るわけですよね。芸術家が。
「心とは」「人間とは」とか。
でも益田少年は思うわけですよ、「結局、ガチは何なの?」と。中二病みたいな。
「ガチだと何?」みたいに思っていましたね。
現代における「ガチ」とは何なのか、「ガチ」の心って何なんだろうとか。
「脳なんじゃないの?でも脳ってまだわかんないよね」と。
心理とか人文系の社会学は、文系(笑)みたいな。意地悪な高校生の僕ですから。
臨床という前線が「ガチ」だなって感じなんですよね。僕の中では。
泥臭いことがかっこいいと思ってたところもあったというか。
そんな感じで精神医学を選んだのはあるのかなと思います。
これも医学部に行ける偏差値を取ってからの話ですけどね。
取る前から言っていたら格好いいですけど、偏差値を取ってから、安全地帯から喋ってたみたいな。そんな気がしますね。まあ、そういうダメなやつですよ。
共感だけではよくならない
心の病気を語ることで思うのは、まず一番最初に、深く悲しんだ人が発症するというわけではどうやらなかったことがわかりました。実際、精神科医をやってみて。
社会的な一番の被害者がなるわけでもどうやらなかったいうのはあります。
遺伝的なものだけというわけでもない。
これだと不十分なんだけれど、人災的なものももちろんあったんだけれど、心の病気の捉え方はちょっと変わってきてます。
純粋に心ということから考えていくとか、気持ちを共感するところからアプローチしていくと、どうしても治療の本質には行かないというのは身に染みてわかっているというか。
僕のYouTubeを初めて見た人はびっくりすると思うんですよね。
「えーっ、心って共感した方がよくなるんじゃないの?」「益田先生が言ってることは違う。本には共感が大事とか、親身になることが大事とか書いているじゃない?」と思うと思うんですよ。
でも共感したりとか、親身になることで良くなっていくことはまずないんです。
昔はちょっと違うと思うんですよね。
社会的な被害者、上手く喋れなかった、社会が抑圧していたということがあったときには、共感していくことがとても重要でした。共感をしなかったんですよね、人類は。
歴史を経て、やはり人間というのはいろいろな人を認めていくということに変わってきた。
ここは十分になってきたところがあって、次のステップが必要です。
相手を見て話していく
それは「相手を見て話していく」ということだったりします。
相手の「特性」ですよね。これだけ発達障害が言われるようになったのはなぜかというと、認めていくところはクリアしたから次の現実が見えてきたというか、そんな風に思いますね。
自分が見ていたものとか結構進みました。
一見みんな当たり前に持っている、平等と思っていたものが実は違った。
多様性やそういうものが可視化されてきた。
それが何か面白い気はしますね。
心の病気とは何かと言ったときに、ここら辺が最前線のものなのかなという気がします。
今見ている人たちで映画を撮りたいとかアートを作りたいという人がいたときに、ここを扱わないと面白くないなという気はします。
社会的なものを扱うというのは19世紀の小説が出たばかりのような話の気がするし、社会的な問題というのは20世紀からの話みたいな感じがします。
やはりトピックはここなのかなという気がしますね。
次もまた見えてくるものがあるのでしょうけど。臨床的姿勢。
そんなことを考えますね。
だからYouTubeはやっぱり面白いなと思いますね。
こんなの本にもならないし論文にももちろんならない、本当にただの雑談ですよ。
そういうものをただ雑談として提供できるので面白いなとは思いつつ、僕の雑感を述べてみました。
コロナ前、働き方改革前は長時間労働のうつやパワハラのうつが多かったんですよ。適応障害が。
だけどこういうのが本当に一気に減って、発達障害のうつが多いですからね。グレーが付くか別として。やはり次のステージに臨床が移っているなと思います。
今回は、心の病気というテーマで雑感を述べてみました。
心について考察
2023.3.4