本日は「自分が何をしたいかわからない」というテーマでお話ししようと思います。
ジョージ・ハーバート・ミード(1863年–1931年)、アメリカの社会心理学者の方なんですけど、この人の理論をもとに、どうやったら自分のやりたいことが見つかるのかを一緒に考えていけたらなと思います。
よく聞く悩みですね。自分が何をしたらいいかわからないとか、自分はどういう人間なのかよくわかりませんと特に10代、20代の人からはよく相談を受けます。
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内面を探求してもわからない
よくある悩みです。
これは自分の内面を探求していってもわからないんですよね。実は。
自分が何かというのは、自分の内面をほじくっていってもわからないんですよ。
自分とは何かとか、自分がやりたいことは何かとか、自分の社会的な役割は何かは、他者との関わりの中からしか見つからないんですね。
だから他人と交わっていって、自分の得意はこれなんだなとか、他人と一緒にいることで、世の中で今求められている仕事はこれなんだなとか。
他人と交わることで、ああ自分が好きなことってこんなことだったんだな、他の人はそんなに好きじゃないんだな、ということがわかっていくんですよね。
よく聞く話なんですけど、でもこれはミードたちがいろいろなことを言ったから、現代の僕ら、特に大人の僕らにとっては当たり前なんだけれども、昔は違ったという感じです。
孤立した状態の自己はない
ミードは清教徒、ピューリタンですね。
キリスト教の中ですごく真面目というか、厳しい教えを守る人たちをピューリタンというんですけども、親たちはピューリタンだったんですね。
だから厳しく育てられたんです。
ただ、キリスト教的な教えが弱まっていく中、じゃあ自分はどういうことしたいんだろうということを考えた世代だし、考えた人たちなんです。
それまでは神様が与えてくれた仕事をやればよかった。
プロテスタントは特にそうです。
神様から与えられた仕事、親がやっている仕事を自分も引き継いで真面目にやるというのが神の教えだし、正しいことなんだとプロテスタントでは教わっていますからやっていたけれど、神様というものをあまり信じられなくなってきた時に、僕らはどうやって生きたらいいんだろうということを考えたわけです。
そういう中で自分とは何か、自己とは何かを人類全体として考え始めた人たちなんですけども、この世代のミードはいろいろな面白い理論を作りました。
孤立した状態の自己はないとミードは言いました。
一人でいる時には自己、自我というのはないんだよと。
僕らは思春期以降に私とは何かを悩み始めるんだけども、それはすでに期待された社会の文脈の中にいる存在であるわけなんですよね。
僕らが自我というものを意識するようになる時には、既に社会の中での文脈はあるわけです。
親がいて、その子供としての自分、学生としての自分がいてそこに気づくんですよね。思春期以降。
「あれ俺、何でこんなこと言うんだ?」みたいな。ビビッと急に気付く。
子供の時はあまり複雑なことを考えられないんですよ。
だけど、思春期に入るといろいろなことを考えるようになるんですね。脳が大きくなるので。
その結果、抽象的なことを考えられるようになるので、自分とは何か、他人は何を考えてるんだろう、他人は言葉では言っているけれども、実は他のこと考えてるんじゃないか、ということを考えられるようになっちゃう。
自己中心的な世界で物事を判断していたのが、自己中心的でなく第三者目線というか、俯瞰的に物事を捉えられるようになる。思春期以降。
俯瞰的には考えられるようになったんだけど、経験や知識が足りないから不安なんですよね。
「え?ナニコレ」みたいな感じになっているという感じです。
これが思春期における自我のわからなさであり、自分が何をすべきかということのわからなさだったりするんですよね。
抽象的なことを考えられるようになった状態からいろいろな人との交流を通じて自分の社会的な役割を発見していくということをミードは言ったという感じです。
一般化された他者
もうちょっと難しい言い方をしています。ミードは。
つまり、「他者」と言っても特定の誰かではなくて一般化された他者との対話によって自分を見つけるんだよという言い方をします。難しいね。
一般化された他者というのは何かというと、いろいろな人と出会うんだけどもこういう人たちを全部まとめた姿なんですよね。
こういう一般化された他者と自分との会話なんですよね。
自分発信で一般化された他者との会話をする時の自分のあり方を主我、他者から期待されてる自分というのを客我と言ったりします。
この主我と客我の動きのダイナミズムみたいなもの、この小さな渦を自我と呼んだんですね。難しいですよ。
よくわからないかもしれないですけど、なんでこんなややこしい言い方するんだって気がするかもしれないけど、ここに昔は神様があったんですよね。
私と神という閉じられた空間から、神との対話によって自分というのを見出していたというのがキリスト教的な考え方なんですけども、そうじゃないよねということを知った時に、神様に代わるものとして一般化された他者というか、そういうものを導いてきたということなのかなと思います。
なるほどなという感じですね。
例えば、この人との関係で自分ができたというと、やっぱり説明がつかないことは結構多いんですよ。
例えば、親との関係だけで自分ができたと言っているのであれば、兄弟同じような人になるかもしれない。
うまく言えないけれどもダイレクトすぎちゃうんだよね。
だから一回噛ませた方が修正がされやすいというのがあるんですけども、これは何て言うのかな。コンピュータとかニューロサイエンスとかニューラルネットワークをちょっと勉強しているとわかるんですけど、間に1個変数を置いた方がデータがぶれにくいというのもありますね。
そんな説明でいいのかな。
すごい直感的な言い方で説明しちゃったけれども、まあそういう感じですね。
一般化された他者というものを置くことで、社会性を獲得していく。
変数が出にくくなったりするんですよね。
お客さん一人からの意見でラーメンの値段を決めちゃうとバラバラになっちゃいますよね。そうじゃなくて、いろいろな意見を一回まとめた上でなんとなく決める方が良かった。
ただそれだけですね。
あとは一個一個やり取りしていると個人というものが分裂されてしまって、別々の自我が複数同時に存在したということになっちゃいますから、やはり一回噛ませた方がいいということになります。
このイメージはちょっとわかりにくいかもしれないですけど、そういうものだと一回思った上で話を続けさせてください。
臨床では
では臨床的にはどうなのかと言うと、例えばひきこもりの人たちですね。
ひきこもりの人たちは、一般化された他者がすごく貧困なんですよね。
現実的な他者のバリエーションが少ないからここが貧困なので、結果的に自分も貧困なものになりやすいし、何をしたらいいかわからなかったりします。
あと、発達障害(ASD/ADHD/LD)の人たち、いくつかの個別の事象から統合された抽象的な概念を作るのが苦手なので、やっぱり一般化された他者の存在が弱いんですよね。
なので自我というものを成熟させにくかったりします。
あとは依存症ですね。
摂食障害、アルコール依存症、ギャンブル依存症とか依存症関係の人もこのバリエーションが少なかったりするので、他人を怖がって積極的に関与できなかったりする。
ここのバリエーションが貧困だったりするので、一般化された他者も貧困になっちゃうよとか。
あとはトラウマですね。
トラウマ関係の人たちも特別の誰か、つまり虐待をしたとか、攻撃的な誰か一人の影響が強すぎる。
一般化された他者がここに引っ張られ過ぎちゃって、結果的に自我がうまく育ちにくい。
引っ張られちゃうというのがあったりするなと思います。
聞いてると何だそれという感じがするかもしれないけれども、僕は臨床もしているので、こういう話を聞いているとちょっとサイエンスじゃない部分もありますよ、もちろんね、サイエンスにはしにくいですから、あくまで哲学というか、思想的な要素は強いんですけれども、でもまあわかるなという感じはします。
このイメージというのは臨床的にはよくわかる感じはします。
今回は自分が何をしたいか分からないということをテーマに、ジョージ・ハーバート・ミードの一般化された他者という概念を紹介しました。
前向きになる考え方
2023.6.30