本日は「いじめられてもバカにされてもくじけない、日本の美意識」というテーマでお話ししようと思います。
日本の文学の出発点はどこかというと、古今集(古今和歌集)です。
古今和歌集は4人で選んで作った歌集なんですけれども、その歌集を作った代表的な人物、紀貫之を紹介しようと思います。
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紀貫之
紀貫之は平安初期から中期の人です。870年から945年まで生きた人ですね。
35歳くらいの時に古今集の撰集をして天皇に献上して、なんというか代表的なやつになるんですよ。
古今集を元に教科書にして歌を詠みなさいみたいになっていくんですよね。
すごいヒット作を出したんだけども、左遷される。
左遷されて935年、死ぬ10年前ぐらいに「土佐日記」というものを書くんですよね。
女性のふりをして、平仮名で日記をつける。
左遷されているのでちょっと恨みがあったり、そういうものを「匿名ですよ」みたいな雰囲気で書いたということです。
何でこの古今集が日本の文化の最初かというと、平仮名を普及させたからなんですね。
基本的には日本は文字は漢字を使ってたんですよ。
公的な文章というのは漢文ですね。中国語で書いていたんですけれども、それをくずして平仮名を作ってカジュアルにやったというか。
このカジュアルな文字を使うことで、女性も使ったり、和歌を詠んだりすることで、恋愛や貴族文化が栄えていったというのがあります。
お隣韓国はハングル文字ができるのが15~16世紀なので、日本は結構早い段階で自国の文字を作ったということです。
どんな価値観があるのか
この古今集が日本の美意識の基本になるんですね。
こんな歌を詠むといいですよというお手本になるので、そこには価値観があるんですよね。
どういう価値観かというと、花鳥風月を重んじるとか、日本の四季を重んじるという価値観ですよね。
四季の移りゆく感じ、花鳥風月を重視するというのが日本の美意識の中心になっていくんですね。
「死」や「別れ」ですよね。「もののあはれ」、永遠のものがないという無常観も含めて、その寂しさも含めて日本の価値観、カルチャーになっていくという感じです。
ちょっと面白いのが、権力と権威が分離されてるんですね。
日本は初期の段階で権力と権威が分離された状態でずっと続くんですよ。
平安時代の時からもう天皇の時代ではなくて、藤原家が支配するじゃないですか。
権威としては天皇にあるんだけれども、実際の権力は持ってないという状態がずっと続きます。
だから戦国時代になっても、一応権威は天皇にあるんだけれども、実際は権力を持っていたのは武士だった。
貴族も同様なんですよね。権威はあるけれども、実力はない。
だけど権威があるから、そこに文化を作っていくんですよね。
その文化は何かというと「古今集」ということですよね。
これを教科書にした。
でも皮肉ですよね、「でも永遠なものってないよね」とか、そういうものが日本のカルチャーのメインだったりするんですね。
最初から日本らしさのメインはどこか拗ねているところからスタートする。
陰キャスタートみたいなところですよね。
男が女のふりをするわけですから。最初からネカマというやつです。
最初からそんな感じです。
なので「たをやめぶり」と言うんですよ。女らしさ。
反対語は「ますらをぶり」とか言って、万葉集は「ますらをぶり」なのに、古今集は「たをやめぶり」なんだと言って。
江戸時代ぐらいからちょっと批判があって、明治時代になると正岡子規らによって「古今集っていうのはあんまりいいもんじゃない」みたいな言われ方をします。
やっぱり明治になってくると、富国強兵の時代でナショナリズムの時代になっていきますから、中国にも勝ったりして自信をつけ出す時期なので、そういう中では古今集というのは情けない、弱々しいものになるのかなとも思います。
ただまあ僕ら精神科ってマイナーじゃないですか。
患者さんもそうですし、弱々しい側、いじめられている側でもあるので、まあフィットするんじゃないかなと思います。日本のカルチャーのこういうところは。
歌を紹介
実際どんな歌があったのかっていうことを最後に説明します。
袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ
袖に夏場に水がかかって、冬になったら水が凍る。春の風によってそれが溶けた。
そういう水のイメージと、凍ったなという感じと、溶けていく感じ。
一つの歌の中に四季の美しさが描かれている。これは紀貫之が詠んだ歌です。
和歌という形は万葉集の時には色々なタイプがあるんですけれど、古今集によって5-7-5-7-7と決まるんですね。
和歌はある意味天皇に捧げて詠うものでもあるので、言霊の要素もあるんじゃないかと考えられた神聖なものだったりします。
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
皆心は変わっていくかもしれないけど、ふるさとは変わらないよと。
昔と同じ匂いを梅は出してくれているよという歌です。
これも嫌味というか皮肉ですよね、相手に対する。
人間の心ではなくて自然だよねという感じです。
あとは在原業平が詠んだ歌です。
在原業平は超モテた男です。キムタクという感じです。
ついにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思わざりしを
いつか死ぬと聞いているけれどこんな早いとは思わなかったよ、という歌を詠んだということですね。
何て言うのかな寂しさも出てくるという感じですかね。
1000年以上経っている歌ですけど、言いやすいのは歌の力ですね。
昔の人たちも苦しい思いをしてきたし、左遷されてムカついたり色々な思いをしているんですよね。
今ほど娯楽もなければおいしいものもないし、気を晴らすものもないと思うんですよね。
でもこういう歌を詠んで慰めていたし、人が詠んだ歌を暗誦したりする中で慰められてきたというのはあるんだろうなと思います。
それが僕らの中に美意識として残っているということですね。
今回は紀貫之の話をしました。皆さんも何か参考になればいいなと思います。
仕事の悩み
2023.7.14