本日は「自閉スペクトラム症と社会化困難」というテーマでお話ししようと思います。
僕は精神科医YouTuberとして動画作成をしていて、これは何のためにやっているかというと、社会全体に精神疾患のことを知ってもらいたい、差別偏見をなくしたいという思いで撮っています。
そして知識を得ることは治療にもなるんですね。なので知識をつけてもらい、そして治療に役立ててもらいたいと思っている。
それは当事者の人たちやそれをサポートしてくれている周囲の人や家族に対してもそうです。
そういう人たちも知識をつければ対応方法が変わって、その人たちを癒していくことができるから、そういう意味でも動画を作っている感じです。
最後につながりを作るためにも動画を撮っているんですね。
なのでコメント欄を通じていろんな思いを書いてもらうことで、自分一人じゃないんだと思ってもらいたい。そういう思いで動画を撮っているという感じです。
ただ今回の内容は、発達障害の人の限界とか、治療の困難な部分を扱う予定です。
良い側面ばかりじゃなくて、ちょっとネガティブな側面も扱う予定です。なので、場合によっては差別偏見を助長しかねないかもしれないです。
ただ、敬意と配慮を持って動画を撮ろうと思っていますので、まず最初にその点はご配慮いただけたらなと思います。
あと障害ですね。発達障害はこれから「神経発達症」と呼び名が変わる予定です。
まあ発達障害の方がメジャーなので、発達障害と呼ばせてください。
発達障害は3つの病気に分けることができます。一つは自閉スペクトラム症で、もう一つは注意欠如・多動性、3つ目が学習障害です。
大きく分けてこの3つに分けるのですが、これらは合併することが多かったりします。
なのでASD、自閉スペクトラム症と診断されても、ADHDのように不注意があったり多動があったりするのは珍しくないという感じです。
逆にADHD、注意欠如・多動症と診断されていても、コミュニケーションの苦手さだったり、こだわりが強かったりする。つまり、ASD、自閉スペクトラム症の特徴を持つことも珍しくないという感じです。
社会化するとは
自閉スペクトラム症の人は、社会に馴染むことが困難だと言われています。
それはなぜかというと、社会的なコミュニケーションを取ることが苦手だったり、他者と相互的なコミュニケーションを取るのが苦手だからだと言われています。
且つ、自分のこだわりを曲げることは苦手なんですよ。
だから自分の思い通りにやりたい、自分のルールをそのままやりたいと突き通してしまうので、どうしても社会の中で軋轢が生まれたり、衝突したりして、社会からはじかれてしまうということが多かったりします。
定型の人達も昔から社会に馴染んでいたかというと、そういうわけじゃないんですよ。
生まれたての赤ん坊は社会に馴染んでないんですね。
僕らは、親からしつけられることによって、学校の先生や先輩や上司とか色々な人からしつけてもらうことによって、だんだん社会に馴染んでいくんですよ。
僕もクソガキでしたから、子供の時もクソガキだったし、今もまあ中堅どころになってきましたけどまだまだクソガキですけど。でも色々な人がしつけてくれたのでやれているんですね。
子供の時ってしつけられるんですよ。
ちゃんと茶碗を手に持ちなさいとか、お箸をきちんと持ちなさいとか、ごめんなさいと言いなさいとか、挨拶しなさいとか言われます。しつけられますね。
むかつくなと思いながらしつけられるわけですよ。
何で言うこと聞かなきゃいけねえんだよとかやりますね。
僕も今、自分の子供たちをしつけたりして、子供から「あー!」とか言って怒られたりね。
「何なの」とか言って怒られたりしてますけど、しつけます。
しつけの後に思春期になってくると反抗するんですね。
10代というのは、仲間と組んで親たちや社会に反抗するわけですよ。反抗期ですね。
学校の先生の言うことを聞かない。何なんだよとか言って。
学校は勉強しに行くところなんだから反抗するなよと言っても、俺は勉強はしたくねえんだよと言って学校に来ているみたいなね。
そういうことがあって、仲間内で自分たちの社会を作るんですね。
疑似的な社会を作って、仲間内でルールを作ったり組織を運営してみたり、親たちに反抗してみたりとかやっていくんです。
そういう中で自分のアイデンティティをもう一回作り直すんですね。
その結果、いろいろなことを学んでいって社会化していくんですよね。
だから一つは屈服ですよね。
相手の事情もわかったりとか、社会の複雑さを知る。
そしてやはり学校の先生のみならず、社会って強いですよ。だから負けちゃうんですよね。
負けて「うん、まあ仕方ないか」と言って会社に入っていって大人しくなる。これが普通の大人です。
屈服して社会化していくのが正規ルートですね。
もう一方で、勝っちゃう場合があるんですよね。
父親殺しに成功しちゃうパターンもあるわけです。
だから「許せねーよ」とか言って、「こんなのやってらんないよ」と言って壊しちゃう場合があるんです。
既存のコミュニティを壊しちゃう、殺しきってしまう。
その結果罪悪感を持つんですね。
田舎なんか壊しちまえと言って、本当に田舎を出ていって、田舎が衰退しちゃったよと。
自分の故郷なんかいらない捨ててしまえと言って捨ててきて、本当に寂れちゃうとか。
家業を継がないよと言って、本当に自分の親たちがやってたお店や商店を潰しちゃうみたいなね。そんなのよくある話なんですけども、あるんですね。
その結果、自分が幸せになるために、自分が生きるためには、親や上の世代、過去のものを犠牲にせざるを得なかったわけですね。
犠牲にせざるを得なかったんだけども、罪悪感を抱えるんですね。
「ああ、申し訳なかったな」と。
あそこまで壊しちゃったなとか思って罪悪感を抱えるからこそ、自分の好き勝手できないなあ、せめてこれからは他の人たちのために頑張ろうとかね。
故郷で頑張れなかった分、都会では人のために働こうと思うんですよね。
こういう社会化のあり方もあるわけですね。
これが社会に出ていく、社会化していくということなんです。大人になっていく。
どこか切ないんですよね。社会に馴染むということは。
屈服する。僕もこんな感じですよね。
自衛隊に入って屈服して自衛官としてやっていくところもあったし、でも「やってられるか」と反抗して辞めちゃった場合は、今度は辞め切ってうまくいっちゃうと、今度は自衛隊に恩を返せなかったなとか、自衛隊にせっかく育ててもらったのに自分の好きに医療をやっちゃっているなとか迷惑かけてるなと思って罪悪感がある。
でも罪悪感があるから、じゃあ他のことで頑張るか、今の臨床を頑張るかとか、YouTube頑張るかという気になったりするんですけど、こんな感じなんだよね。大人というのはこういうことなんですけどね。
発達障害の人は屈服や罪悪感を持つことが苦手
ただ、発達障害の人は、この屈服とか罪悪感を持つことがすごく苦手なんですよね。
子供の時はしつけられるんだけれども、これが「何なんだよ」といういい塩梅でちょっと子供も反抗しつつ、でもこの屈服を受け入れなきゃいけない、躾を受け入れなきゃいけないという良いバランスじゃなくて、一方的に押し付けられて恐怖のように感じたりする。
一方的に押し付けられている感じがするみたいです。
妥協したり交渉の余地がないような感じで。
交渉するのがそもそも苦手なので、ただ怖くて受け入れざるを得ないみたいな感じになる。
仲間と反抗する時期も経ないんですよね。
仲間を作ったりするのは苦手なので。
ただこのしつけの状態が大人になっても続くみたいな形なんですよね。
ただしつけられ続けている、常に屈服させられているような感じが続くことが多いですね。
大人になってもそんな感じで、決まっているからやっているというのは、子供の時に親から押し付けられてるような感じ。社会はこうでと押し付けられたものを、大人になっても同じように体験していることが多いですよね。
それはなぜかということですよね。
それは一つは暗黙知などの理解が困難だから。
暗黙知やいろいろな社会のことを知るにつれて、まあ仕方ないなとか、相手もそんな事情があるんだなとか、ここで我を張ってしまったらあっちの組織で問題が起きるんだなとか、そういうシステムとして全体として理解していく。社会全体を把握して理解していく。
こちらを立てればあちらが立たず、ということがなかなか理解しにくかったりする。
後は共感ですよね。共感が困難なので、なかなかこっちの方に行かない。
「いや、相手もそうだよな」「まあ仕方ないよな」「お互いさまだよな」「何か悪いことしちゃったな」みたいな感じがちょっと難しかったりする。
後はこだわりとか。変化が苦手なんですよね。
だから自分のこだわりを突き通したいし、視野が狭いんですね。自分のこだわりを追求したい。
変化を嫌い、それをやりたいという思いが強すぎて、他のことが入ってこないんだよね。そういうことで社会化が困難である。
だからこういう風にしなきゃいけないんだよと言うと、ただただ押しつけられているような感じがして、なんかイラっとしたり、逆に恐怖を感じたりすることがあります。
社会ってこういうもんだよねということを知っていく。でも世の中ってこうだよねとか、人間の心ってこうだよねという僕らの教えですよね。
精神科医の教えだったり、気づきの促しがただただ押しつけられている感じがして、嫌な気持ちになる。何かむかつくなぁみたいなことが発達障害の人の治療をしているとよく起きます。
だから僕らは無意識に気づいてもらうとか、ポストモダンですよね。
ポストモダンとかポスト構造主義みたいなことを思って、構造というのがあるんだとかね、そういう話をする。
システムってこうなんだよとか、社会はこうなっているんだよということを説明しても、ただただ何かを押し付けられたような感じがしてしまうというのが発達障害の人のよくある感じです。
社会化困難というのはこういう感じですよね。
本来であれば神経症やうつの人とかであれば、視野が狭かったりとか考えたことがなかったりするんですよね。
だけど、精神科医のアドバイスとか心理士のアドバイスとか、「こっちについて考えてみたら」と気づきの促しをすることによって、「ああそういうことなんだ」「相手もこんなことがあるんだ」「これは考えたことなかったけど、なるほど納得だな」といって、罪悪感を持ったり、屈服したりするんですよ。
だけど、発達障害の人はどうもそこが起きにくかったりしますね。
もちろん程度の問題はありますけどね、そういうのがあります。
そもそも共感の困難は人によっても結構違うんですけど、程度がね。
でも本当にこの障害の根幹なんだよね。
発達障害の人というのはそもそもそういうものである。だけど、トレーニングによって幾分か社会化がしていける部分もある。
だけどもやっぱり元々ある限界というのはあるよね、というこの3段活用として理解していく必要があって、トレーニングの限界性も僕らは考えていかなければいけない。
治療者は常に、いろいろ促せばこっちに戻って同じように屈服していくとか、罪悪感を持てるんじゃないかと思うかもしれないけど、そういうわけじゃなく、ただただ嫌な思いをしている。
ただただ虐待を受けているような感覚になるってことはよくあります。
10代~20代の発達障害の人たちはこっちの部分の側面もまだまだあるので、普通に社会化していく部分もありますよね。だからまだ社会化できていない部分、今後社会化する部分というのがあるので、変化が大きいんだけども、中高年の発達障害の人になってくると、これから社会化していく部分というのが少なかったりするので、変化が乏しいというのはあります。
それは正常発達がしやすい部分としにくい部分の問題とも言えたりするかなと思います。
難しいですね。
ちょっと意地悪な話でしたね、今日は。
こういうのを「生物学的な岩盤」と言ったりしますけども、やっぱりこういう限界性もあったりするので、言語的介入では治療困難な分野というのもありますから、そういうこともやっぱり障害の難しさ、障害の苦しみとして理解してもらえたらなと思います。
ということで、今回は自閉スペクトラム症と社会化困難というテーマでお話ししました。
発達障害
2023.7.27