本日は「親子でいつまでも残るいさかい」というテーマでお話しします。
子どもがなかなか自立できず、いつまでも親に対して恨み言を言ってしまう現象があると思います、30代、40代になっても続くとか。
最近だと「8050問題」といって、引きこもりの人が長く家に引きこもっていて、そしてその親子関係が破綻したまま、怒りをそのままずっと親に持っていることもあったりします。
ではこれは精神医学的にどう考えているのか、これはどういう風に解決していけばいいのか、ということを今回はお話しします。
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親子がくっついてしまっている
親子がくっついてしまっている状態という風に考えます。
「何でなんだ」と言ってずっと親子がくっついちゃっている。
古くは、母子密着や分離不安と言われたりしていた概念に近いのかなと思います。
昔の精神病理学としてよく使われてた言葉なんですよ、母子密着と分離不安は。
今でも使われてますけど、それに似ているなと思います。
親子のトラブルというのは母と娘だけとは限らないのですが、家族の密着感と言ったりします。
古くは摂食障害や境界性パーソナリティ障害の患者さんの親子で見られた現象ですが、やはり最近だと発達障害(ASD、ADHD)の子や引きこもりの中で見られることが多いなと思います。
つまり、互いにいがみ合っているといっても距離が近いんですよね。
互いのことが気になって仕方がない。
互いのことを考えることで一日中頭が占められているような状態を母子密着と言ったりします。
人間の脳は過剰進化?
精神科は、生物学的な自我と社会的な自我のジレンマに悩むということが多いんです。
うん、難しいね。
つまり、人間というのは脳みそが進化し過ぎてしまっているんですよ。
進化し過ぎて複雑なので、何か変なことが起きる、誤作動が起きる、何かこうスッキリ行かないんですよ。
生物的な過剰進化とも言えるんだと思うんです。
キリンの首が長すぎるとか、絶滅したサーベルタイガーの牙が伸びすぎて、それがいつしか自分たちの頭にぶつかってしまう、伸びすぎた進化というか。
それに似ていて、人間の脳も、過剰にデカくなっちゃった、という感じがします。
SFではそのせいで地球という生き物にとってはがん細胞みたいなものなんだ、と言ったりしますけど、そういう見方もできると思いますし、複雑であるが故に病気になってしまう。
病気というか、故障が起きちゃう、という感じがします。
シンプルな臓器というのは、なかなか故障が起きにくいんですよ。
心臓とかシンプルですから、故障が起きにくいですけど、脳というのはやはり複雑すぎる感じです。
あと、社会的自我のジレンマです。
社会的自我というのも複雑なんですよ。
人間の社会というのは、原始時代はそんなに知識が積み重なっていかなかったんだけど、文字や紙など次の世代に知識を持ち越せるようになった結果、ここ2千年くらいでグググッと成長して複雑になっているんですね、社会が。
その2千年、3千年の重みが現代の複雑さを生み出していて、ましてや国際的にもなっていますからより複雑になっていて、その中でモヤモヤしてスッキリいかない。
そして、生物的な自分と社会的に求められる自分のここにもバッティングが起きるんです。
生き物としてはまだまだ幼い、10代というのは若いので、社会的なルールに沿えない。
10代というのは生体リズムが違うんですね。
だから朝早く起きられないんですよ。
大人のように朝早く起きられないんだけれど、学校という社会システム上起きなければいけない、そういうところのバッティングもあったりする。
それは子どもだけじゃなくて、親の方、大人の方にもある。
大人というのも、だんだん体力も落ちてきているにもかかわらず、若者と同じだけ働かなければいけない、男女で体力が違うにもかかわらず、男性と同じだけ働かなければいけない、女性がね。
個人個人によって体力や知力の差があるのにもかかわらず、同じ人間だからということで同じ量で働かなければいけない。
そういうぶつかり合いがあったりします。
そこのぶつかり合いが精神科の問題を複雑にさせたり、なかなかその葛藤をうまく調合できないところがあります。
宗教と科学の関係とも似ていますよね。
生物学的自我が科学的な要素、社会的自我が宗教的な要素。
科学と宗教はバッティングするし、矛盾し合うんです。
この矛盾をどちらか一方を否定するのではなく、うまく融合しなければ本当は駄目なんだけれど、できない人もいる。
できる人の方がほとんどですけどね。
そこら辺の問題とも似てます。
合理的に振る舞う
それらを超えて合理的な存在として人間は振る舞わなければいけない。
あるがままを見て、よく感情のコントロールをして、合理的に動かなければいけないんですけれど。
これが理想ですね、治療のゴールの理想ですけど、なかなかできないんじゃないかな。
できないですね、普通は。
でも基本は、自分の感情のコントロールができる、自然体を目指すことです。
そこから先に、自分の感情のコントロールを覚えたら、もっと心の世界、心の奥底へ探求していく禅みたいな要素もあるんですけど、これはマニア向けなので、自然というか、そういう感情コントロールの一部ができるようになればいいんじゃないかなと思います。
それも難しいので、最近僕は「ズボラ」と言ったり、色々良い言葉を考えてるんですけれど、考えようとしているんですけど、まあいいんだよ、と言ってあげることで十分じゃないかなという気がします。
もう仕方ないんですよね、ある部分の人間の弱さに対しては。
その弱さに対しての肯定感や愛情を持つことがやはり一番重要だと思うので、「いいんだよ」というカルチャーを身につけるというのは、親がすべきことなのかなとか思います。
もちろん、それで本当にいいんですか、とかありますよ。
で、いいんだよ、いいんだよ、と言っていたら、本当に世の中で生きていけないでしょう、この子たちは。
躾けなければダメなんじゃないか、と言うんだけれど、そうと言えばそうだけど、なかなかできないのであれば「いいんだよ」ということを教えてあげるだけでいいんじゃないかなと思います。
あとは他の人が、社会が教えてくれたりしますから。
それでうまくいかなかったら、その子の持っている、元々持っている能力だったり、成長の限界だったりするんですよね。
あとは福祉の制度とかに期待して、日本という国は餓死はすることはないですから、そのシステム、そのレールに乗っかって生きていけばいいところもあります。
そんなんでいいんですかと言わわれそうですが、精神科というのはそういう人もたくさん診ていますし、そういう人たちが生きやすくなるように「いいんだよ」ということを伝えている文化でもあるし、そういう場所でもあったりします。
なぜ親に対してこだわるのか
それが結論と言えば結論なんですけど、どうして子どもというのが親に対してこだわってしまうのかということを、もうちょっと要素分解してお話ししようかなと思います。
ひとつは、子どもというのは、赤ん坊は特にそうですけれど、乳幼児や児童は愛情と安全性というものを親に求めます。
親がいなかったら死んじゃうので。
だから愛情と安全性を切実に求めますね。もうすごく本能的に求めます。
そこからやはり心理的に依存する。
まだまだ親に頼らなければ、という形で心理的依存し、反発し、思春期を迎え、どこかで自立していく。
自立した先に、恋愛をし、恋愛をしない人もいるかもしれないですが、子どもが生まれ、母性や父性を獲得していく、という命の循環があったりします。
この「自立の問題」というのがなかなかできない。
生物的に自立というフェーズに移行しにくかったりする時に、やはりこういういさかいというか、次のステップにいけないこともあったりするだろうし、自立はしても、やはり母性や父性という次のフェーズに移れなかったりすると、やはり親子の問題が残るというのがあったりします。
生物的な問題だけじゃなく、経済や文化的な要素も絡むんです。
例えば、日本だと社会的・文化的期待というものがあって、離れていくことを良しとしないわけです。
儒教文化だったり、祖先信仰があったりするので、そういうもののせいで親を大事にしなければ、親子は仲良くしなければ、ということで縛ってしまう。
縛ってしまう結果、密着感が生まれてしまうというのがあるかなと思います。
あとは経済的自立の問題です。
今は経済的に自立することが困難なので、それゆえ密着してしまうということもあるのかなと思います。独り暮らしの困難さとか。
あと、一人前になるまで時間がかかるので、モラトリアムの延長とか言ったりしますね。
大学を出ただけではまだ一人前と言えず、今時、一回転職しないと一人前と言われなかったりしますから、転職までの間ちょっと親に頼るってこともあったりするのでしょうし、そういう意味で延びてるなという気がします。
あとは発達障害ゆえのこだわりですね。
特性のこだわりとして親にこだわってしまうなどです。
だからいつまで経っても抜けないという問題もあるだろうし、母性や父性というのはSNSや資本主義的な意味で否定されている。お金にならないですから。
一番お金を使うのは10代とか若者なので、大人を10代、20代にさせたいということがある訳です。
いい大人なんだから洋服を買わなくてもいいじゃないか、外見ばかりに気を遣っちゃダメだよ、ということを言ったらやはりモノが売れないので、そういうのがあったりします。
あとは抑圧のメタファーです。
成長していく中、自立していく中では、社会とぶつかるんです。
色々ぶつかって、我慢しろ、我慢しろ、我慢しなければいけない/やりたい、このぶつかり合いの中、自分というのが成長していくんですけど、結局我慢しろと言う人がもう親しかいないんです、最近は。
抑圧のメタファーとしては親もあるんだけど、現実的に今までは学校の先生など口うるさい人が他にもいたんだけれど、最近いなくなってしまった。
社会からそういうことを言われなくなった。
パワハラと言われるのが嫌だから、もうみんな怒らなくなってしまった。
結果、躾けなければいけないのが親だけになってしまって、それで親と密着してしまう。
あとは家族の密室化です。核家族化している。
地域社会というのは、崩壊している。地域のつながりがなくなっていく中、より密室化してぶつかる相手が親しかいない。
引きこもりがそうですよね。
あとはやりたいことがないというパターンです。
やりたいことがないから次に進めない。
その結果、発達障害の人など、特に自己の確立がないから密着してしまうというのもあるかなと思います。
やりたいことがないというのは、半分ぜいたく病と言えばぜいたく病なんです。
豊かになってきた結果、やりたいこととは何かというと、自分が承認される、やりがいとかになってしまうんです。
ただ食べられたらいいとか、おいしいものが食べたいからこの仕事に就くんだ、それくらいの欲望でものを選べないんですよ。
「僕お寿司が好きだから、お寿司屋さんになったら毎日お寿司食べれるかも。じゃあお寿司屋さんになります」みたいな。
そういう素朴なことでモノを選ぶってことがしにくいですよね、今は。
おいしいものを食べたいからこれします、そういう素朴なことがしにくかったりします。
そういうこともあるのかなという気がします。
ここら辺も自己実現というもののレベルというものが、要求されるレベルというのが、社会が豊かになるにつれて複雑化し、難しくなっているから、密着が起きているということです。
それがましてや発達障害の人とかになると、こだわりだったりして色々よりしにくくなっているということなのかなという風に思います。
親子問題
2023.11.27