今日は「自殺願望」について解説します。
YouTubeの分析を見ていた時に、関連動画としてあがっていたものを僕も語ってみようと思います。
その動画は質問に答える内容だったのですが、「自分は発達障害で、ミスが多く職場でも上司や同僚に叱られてばっかりです。もう死んでしまいたいです。自殺願望があります」というような質問でした。
回答者であるYouTuberの人は、「嘘をつくなよ、お前は自殺願望だと言っているけど本当に死にたいわけではない」「甘えなのではないか」というようなことを言っていました。
こういうことを聞くと「ん? どういうこと?」と思うのですが、世間の評価と精神科医的な意見が違うことはよくあります。
患者さんたちが「この生活は苦しすぎる、死んでしまいたい」と言うと、「それは甘えだろう」と言われることが多いのですが、僕らはそう思いません。
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未来が明るいと思えない
患者さんたちには劣等感や自責感があり、自分が人より劣っているという現実に耐えられない。実際にそれで迷惑をかけていることに耐えられない。自分は社会にとって必要ないのではないか。どう考えても自分は劣っているし、未来が明るいと思えない。
成功するイメージが湧かず、押しつぶされてしまう人はたくさんいます。
精神科の患者さんは、皆さん大なり小なりそうです。
だから死んでしまいたいのです、という話はよくあります。
安楽死の対象になるのか?
これを教科書的に言うと、自殺というよりも「それは安楽死の対象なのか」ということです。
これについては、イェール大学のシェリー・ケーガン教授が、大学の1、2年生向けの講義を本にした「DEATH 死とは何か(文響社)」に書かれています。
基本的には、劣等感や自責感があって苦しいということは、安楽死の対象とはされていません。
たとえどんなに苦しくても、それは死を選ぶほどの苦しみではないというのが今現在の社会的な常識です。
・未来の可能性
どうしてあなたの苦しみは安楽死や自殺を選ぶことが妥当ではないかと言うと、「未来の可能性を十分に考慮していない」ということです。
たとえ苦しくても、未来が明るくならないことはありません。
これからどんどん悪くなっていく、楽しみがないという憶測は間違っています。
成功しないと幸せになれないとか、他人から評価されないと幸せになれないということはまずありません。自分が幸せと感じるかどうかに他人の評価は関係ありません。
他の可能性や、他の感じ方ができるように治療していく、変化をしていくことが重要です。
・判断能力
うつや調子が悪い時は、判断能力が鈍っていて正常な判断ができていないと考えられます。
ですから、安楽死を認めてはならないということになります。
ここでは簡単に言っていますが、本の中ではもっときちんとディスカッションされています。
「たとえどれほど苦しくても」と言いますが、他人からはその苦しみは「甘え」のように感じるようです。
他人からは、その苦しみがリアリティーを持って感じられません。
治療者は、患者さんと同じような苦しみを体験しているわけではありませんし、体験することはありません。言葉では同じことは体験できないのです。
だからギャップがあり、僕の気持ちなんかわからないとなります。その気持ちはわかります。
死に近づこうとする行為
死に近づこうとする行為は臨床上起きます。
近づこうとすることによって死に慣れていく。死に慣れていくことによって生の実感を得る、ということが起きます。
それは、死の恐怖を乗り越えて生に近づこうとするための「遊び」だったりします。
ただその行為が事故につながることもあります。
遊びだから積極的にやって良いかというと、そういうわけではありません。
願望があった場合どのような悪さをするかというのを、マトリックスで分けてみました。
軸は「内向・外向」「他責・自責」としてます。
他責というのは、何か悪いがあったときに他人が悪い、相手が悪い、運命が悪い、環境が悪いと思うタイプです。
自責というのは、自分が悪いと思うタイプです。
どちらが良いというものではありません。
内向的というのは、自分に向かっていく人です。
・外向的で他責的
外交的で他責的な人は、バイクに乗ったり反社会的なことをするのかなと思います。
恐ろしいことをすることで死に近づいていこうとするのでは。
・外向的で自責的
外向的で自責的な人は、自分が悪いと思いつつ外に出していくのでリストカットをしてしまうのでは、と考えました。
・内向的で他責的
他責的でも自分に向かってくる人は、アルコールやギャンブルに逃げてしまいます。
・内向的で自責的
内向的で自分を責めてしまう人は、わりと通院してくると思います。
これらの分類は特に根拠があるわけではなく、僕なりのイメージです。
ヤンキーを見守る親や先生の気持ち
死に近づきながらも、そこから生還し、幸せに生きる人がほとんどです。
しかし、何人もいればそれが成立してしまう人はいるのです。
100人いれば、1人か2人は事故になってしまうことがやはりあります。
それをゼロにしていこうという努力は必要なのですが、ゼロにすることは難しいなと思います。
どういうことかと言うと、ヤンキーを見守る親や先生の気持ちに近いのではないかと思います。
タバコを吸っている子に、それは止めろと殴ってでもやめさせるようなことをすると、彼らの心はわかりませんし更生するかどうかも分かりません。かえって反発して学校に来なくなってしまうかもしれません。
悪さを認めつつ、でも更生してもらうことを願うという距離感がすごく重要です。
精神科の臨床も同じような感じで、自殺願望のある人を見ながら、すごく否定するわけでもなく理解しつつ、でも見守るということが大事です。
そのようなゆるいことをやっているから事故が起こるのではないか、と言われると、そうと言えばそうかもしれせん。完全に止めることもできないというもどかしさはあります。
ただ、見守っているということがわかれば、患者さんは良くなっていくと思います。ヤンキーは親や先生のことを好きな人が多いですから。金八先生のような存在を目指すことも臨床上とても大事なのではないかと僕は思います。
僕は決して人生すべて成功しているわけではないので、どれぐらい苦しいかというのはわからないわけでもありません。その時の嫌な気持ちや嫌な日々を思い出し、それを10倍、20倍、30倍にして患者さんが感じていることを想像しながら臨床しています。
とはいえ、そこにある隔たりもわかるので、どうしたら良いのかなと思いながらやっています。
他の先生もこんな感じで手探りで臨床しているのではないかと思います。
心について考察
2021.10.8