今日は「自殺はなぜ止めるべきなのか」をテーマに、治療の中で「死にたいです」という言葉に対して、僕らはどうして止められるのか、止めることが治療になるのかについて解説します。
自殺をしても良いのかどうかはよく議論になります。
時々テレビの特集でも芸能人の人たちが話していますが、プロではない人たちの意見なので、机上の空論的な要素があると思います。
思考実験として、自殺が許されるか許されないかというのはありますが、それはあくまで思考実験です。
実際に目の前にいる患者さんの自殺がどういうものかについては、皆さん考える素材が足りていないと思います。ですから、テレビで芸能人の方が喋っているのを聞いていると、一般ウケはするかもしれませんが、僕らの臨床感覚とは乖離しています。
ですので、今回はその臨床感覚をふまえてお話ししてみようと思います。
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判断ができない
なぜ自殺を止めるべきかの1つ目の理由は「死んだ方がマシを判断できない」ためです。
自分で判断できないのです。
病気のせいで正常な判断をする能力が失われているので、そもそも「死んだ方がマシ」ということを判断できていないということがあります。
気の迷いである可能性が高いわけです。
精神疾患の場合は特にそうだと思います。
うつ病ならば「うつ状態」であるから「死んだ方がマシ」だと思うのです。
うつ病はそもそも「死んだ方が良い」と思うような絶望感を直接刺激する病気なので、「そう考えるからうつ病」なのです。
うつ病が良くなればそのようには考えなくなります。
治療すればそのようなことを考えなくなるのであれば、「気の迷い」という判断になります。
統合失調症の幻覚妄想も同じです。
うつ病の急性期ではなく、漫然と続く病気もあります。
発達障害、知的障害、人格障害、不安障害など。
このような人たちも、気の迷いのような形で波があります。
すごく低めであっても、治療が進んでいけばそのようには思わなくなることが多いです。
このように、「死んだ方がマシだと判断できない」ということがあります。
正常判断をするようになったときに「死んだ方がマシ」だと思うことは、臨床上ほとんど経験がありません。
認知の歪み
認知の歪みで「死んだ方が良い」と思い込んでいるパターンです。
この場合、その人が考える「死んだ方がマシ」のラインが妥当ではないことがあります。
ここから下だと死んだ方がマシだと思うラインが、そもそも違うという可能性があるのです。
うつ病のように絶望感を強く刺激される状態であれば、あまりに酷いと今度は「制止」が強くなって苦しみさえ感じられなくなります。
それよりもう少しうつが軽い時には、気分が優れず「死んだ方が良い」と思ったりします。ですが、それが永遠に続くことはありません。
うつがもう少し良くなってきた場合や、パーソナリティ障害、発達障害など、漫然と続く自己肯定感の低さから死にたいと言っている場合は、そもそも認知の歪みの問題なので「ゴール設定」を変えてあげれば「死んだ方がマシ」とならないことが多いです。
虐待のせいで自分は生きている価値がないと思い込んでいるのであれば、きちんと治療が進めばそのようには思わなくなります。
確かに他の人よりは劣っているところもあるかもしれませんが、「劣っていること」がすなわち「死んだ方が良い」とはなりません。
劣っていようが優れていようが、人生の楽しみに関係ありません。
その辺りの認知をなおしてあげれば良いかと思います。
友人に裏切られた、親に裏切られた、恋人に裏切られた、だから人生はつまらない、死んだ方がましだと思っても、新しい出会いがあればなんだかんだ言って人間は楽しく生きていくものです。
一時の気の迷いだったりするので、しっかり治療していけば変わっていきます。
ですから「死んだ方がマシ」ということにはなりません。
「マシ」のラインをしっかり話しあえば良いかと思います。
これら2つの問題を明らかにしていけば、自殺は妥当ではないということがわかります。
ALSのようにどんどん体が動かなくなっていく病気で「死んだ方がマシ」だと思うこともあるかもしれませんが、僕はそのような患者さんを治療したことがないのであまり上手くは言えません。
少なくとも精神疾患の場合はこのようなことが言えます。
生きていても、成長・楽しみが少ない
ALSのように「生きていても、成長・楽しみが少ない」ということもあると思います。
老いや認知症も、ある時を境に死ぬまで下り坂のような人生もあると思います。
抗がん剤治療をしていて余命宣告をされそれでうつになった場合、緩和ケアの治療の一部として精神科を利用される方もいます。
このような場合、生きていても楽しいことがなくなってしまう。苦しいしつまらないかもしれませんが、これでさえ「落ちる感じ」が嫌なだけであって、意外とその日その日の楽しみはあったりします。
そのようなことを確認しながらいくと、自分で死ぬということはないなと思います。
他人より幸福が少ない
それからよくあるのが、「他人より幸福が少ない」という話です。
劣等感が強い、障害がある。
自己肯定感が低いのは障害があるからというパターンもあります。
人より幸福度が仮に少なかったとしても、時々本当に死ぬほど苦しいことがあったとしても、やはり一時を過ぎるとまた良くなったりします。ですから、それだけで死ぬべきかというのはまた別なのかなと思います。
そもそも他人より幸福が少ないとか自己肯定感の問題というのは、先ほども述べたように「ライン設定」に問題があります。
また、一瞬の苦しみを重視しすぎたり、中長期的に考えられない、「これが過ぎればよくなる」と考えられないなど認知の歪みが多かったりします。
そこをきちんと治療をして歪みを取ってあげると、死にたいと思うことは少ないかと思います。
衝動的
結局、僕の治療経験のバリエーションが少ないからとも言えるかもしれませんが、多くの人は死にたいというときは衝動的で、すごく吟味された方は見たことがありません。
僕より自殺について考え続けたことがある人というのは、患者さんではあまりいません。
不思議ですがそれはそうだろうとも思います。
僕自身はいろいろな患者さんと自殺をめぐって対話をし続けてきた経験があるので、僕の方が考えているなという気はします。
解決できないことはない
話をよく聞いてみると、親が厳しく自分も完璧主義で、ちょっと汚れた人生が許せない、認められないという人が多かったりします。
でも、多少汚れていても別に良いわけです。
僕だってぐちゃぐちゃですし、それほど優れているわけでもないわけです。
きちんと親の厳しさや自分の中にある超自我を修正して治療できるので、それ自体で自殺を選ぶ理由にはならないかと思います。
また、「この問題は絶対に解決できません」とよく仰るのですが、そんなこともありません。
よく聞いてみたり1つ1つ手伝っていくと、解決できない問題はあまりありません。
もちろんある種の親は子供を愛すことはないかもしれないですし、ある種の人間関係はもう復活できないこともあります。切れた縁が復縁することがないこともあります。
でもそれでさえ新しい出会いはありますし、解決できないこともないと思います。
仕事が見つからないのだと言っても、究極的には仕事がなくても生きていけるわけですし、孤独だと言っても本当に孤独だということはありません。出会いはあります。
いろいろなパターンを知らないからそうなっているのだろうなと思います。
いろいろなパターンは僕ら精神科医はよく知っているので、そのようなことを聞いてもらえれば1つ1つ答えることはできます。
まったく解決策がないということはないなと思います。
このような話はたくさんありますし、死ぬほど苦しいこともたくさんあるのですが、そもそもそのような病気だということなので、治療が上手くいくとそのようなことは考えなくなります。
治療は時間をかけていくと上手くいくのでご安心ください。
今の状態がずっと続くのではないかと患者さんは思うのですが、それはあり得ません。
その悲しみや苦しみを永遠に抱き続けられるほど人間は強くありませんし、絶望を保持し続けるほど病の力は強くないのです。
自分が今望んでいるような未来は手に入らないかもしれないけれど、それなりに幸福を味わえるように現代はなっています。
未来は科学技術も進んで現代より良くなります。
ですから問題ないのではないかとよく思います。
今に囚われず未来のことを考えていくと良くなっていきますからご安心ください。
今回は、自殺をなぜ止めるべきかについて、僕らなりの見解を述べてみました。
前向きになる考え方
2021.12.3