本日は「なぜ精神科医は患者さんの話に引きずられないのか?」というテーマでお話しします。
よくこう聞かれます。
「益田先生、毎日いろいろな患者さんと話をして悲しい話や暗い話を聞いたり、時には怒ったりされて、うつっぽくならないんですか?」
「患者さんの話に共感するがあまり、落ち込んだりしないんですか?」
確かに不思議といえば不思議ですよね、楽しい話は全然聞いていません。
1日7、8時間、週5日、そういう話ばかり聞いているわけです。
変にならないんですかと言われますし、改めて考えると、変な仕事に就いているなと思います。変な人生を送っているなと思います。
でも仕事ですから、毎日落ち込んでいたら続きません。
それなりに我慢できているというか、落ち込まずに済んでいます。
今回、どうして自分たちはそういうことについて落ち込まずにいられるのか、ということを改めて考え直してみました。
それをこの動画で皆さんと共有したいと思います。
大きく分けて2つの要素で成り立つと思います。
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他人だから
これを言ったら元も子もないのですが、「他人だから」ということがあります。
悩みを聞く相手が友人や家族ではない、というのが大きいかなと思います。
友人や家族であれば、どうしても割り切れません。
ですが他人だと、もちろん目の前の人に良くなってほしいと常に思っていますし、どうしたら良くなるのだろうと考えますが、やはりどこか他人事というか、俯瞰的にものが見えてしまいます。
それは、数をたくさん診ているからということもあると思います。知識もありますし。
100人の健康な人がいるうち、一生のうちに「うつエピソード」を経験する人は1割くらいいると言われています。
その10人のうち、薬が効く人が3割くらい、薬がなくてもよくなる人が3割、残りはなかなか良くなりません。
6人は社会復帰ができますが、4人はなかなか社会復帰が難しいままとなります。再発を繰り返すので、3人くらいはそのような状態を繰り返します。
医療は万能ではないというのは皆さんもご存知の通りで、社会から飛び出てしまった人を、全員は無理かもしれないけれど少しでも戻してあげようというのが医療です。
どうしたら彼らが元の場所に戻れるのか、全員ではないかもしれないけれど戻れる人を少しでも増やしてあげたい、そう思いながら診療をしています。
ですが、家族や友人の場合は「戻れない」というのを受け入れるのは難しいです。
家族は100人もいませんから「1」しかいないのです。
その「1」が調子が悪くなり、元に戻る方向にいけないという場合、それに耐えることはなかなかできません。
そういう違いはやはりあります。
医療はすべての人が元に戻ることを目指すかもしれませんが、なかなか難しいです。
イチローがすべての打席でホームランを狙うようなものですから、そんなことをやっていたら成績が悪化してしまいます。
統計的な平均点を理解しつつ、少しでも良い打率を目指すのが良い治療者かと思います。
・物理的現実/社会的現実
結局、こういうことをどのように言うかというと、「物理的現実」と「社会的現実」と説明することを最近覚えました。
物理的な現実とは「そのままの姿」です。
石、砂、海、人間、猿、など。
社会的な現実とは、家、車、お金、愛、といったものです。
人間の想像や言葉によって修飾された世界、価値づけされたものが「社会的現実」です。
人間でなくても、他の動物が見てもそのままに見える世界を「物理的現実」と言います。
例えばこういうことです。
社会的現実:お金
物理的現実:紙切れ、金属の塊
社会的現実:お寿司
物理的現実:米とその上に乗った生魚
僕らは患者さんの社会的現実、個性、人間性を見ながら、同時に物理的現実、動物として見ています。「脳の病気」として見ています。
この辺の切り替えができるのは、他人だからできる、精神科医だからできる、ということです。
友人や家族を物理的な現実で見られるかというとなかなかできません。見ようとはしますが。
例えば自分の父親や祖父母が病気になってしまう、ガンになってしまう、亡くなってしまうという時に、社会的な現実、孫としての自分、子どもとしての自分は受け入れ難いですが、物理的な現実から見れば「年を取ったら死ぬよな」ということです。
でもそんなことは言わないですし、思えません。
それが他人と家族の違いかなと思います。
患者さんが友達や家族になってしまうと、そういう切り替えができないので良い治療ができなくなる、ということでもあるかと思います。
そうなんです、良い治療ができないのです。
外科の先生などもそうですが、身内や知り合いを治療すると気合が入りすぎて上手くいかないということがたくさんあります。
気を遣って普段と違うような診療をすると、却って治療成績は下がります。そういうものです。
慣れ、受容
これも元も子もありませんが、「慣れ」や「受容」の問題です。
慣れてしまっている、ということです。
すべての人を救えるものではないという現実、少しでも良くなるためにやれることはこれくらいだ、人間には死がある、劣性なものがある、トラブルがある、ということをどこか受け入れてしまっているということがあります。
経験したことがある、考えたり悩んだりしたことがある、ということです。
僕も研修医の時に初めて児童虐待の問題を扱った時、緩和ケアの問題を扱った時は、本当に心が痛みました。よくわからなくなりました。
どうしたら良いのだろう、どうなってしまうのだろう、とすごく悲しい思い、「何なんだこれは」と困惑をしました。
忙しいのでその中で困惑をある程度打ち消すことができていましたが、そういう経験はあります。
ですが何度も何度も経験していくと、世の中にある虐待の問題を、受け入れている、慣れているという言葉は相応しくありませんが、淡々とプロの仕事としてやれるようになってきたのはあると思います。
結局僕らにはできることとできないことがあり、それをしっかり把握した上でできることを増やしていくことしかできません。人間ですから、そのような限界性の中で、今の医学ができることを最大限やる、ということです。
怒りの投影や投影同一視
もう一つあるのが、「すっぱい葡萄」の役割をしているということです。
誹謗中傷の話です。
そんなこと聞きたくないよと思うかもしれませんが。
精神科医をやっていて怒りをぶつけられるとか、誹謗中傷を受けるとか、この動画もそうですが、いろいろ経験して思ったりしました。
確かに患者さんが言っていることはもっともだな、僕の言葉が足りなかったな、態度がもしかしたら失礼だったかもしれない、気が抜けていたかもしれない、傾聴の時間を取れなかった、と思うことはあります。
でも一方で、治らない現実や上手くいかない現実を僕のせいだと転嫁している部分もあるなとか、自分の今の怒りを投影したり、投影同一視しているな、というのもすごくわかるようになりました。
これはYouTubeをやるようになって思いました。
患者さんやコメントを見ていると、色々なものを僕に見ているようです。
「僕そのもの」を見ていないというか、僕はこんな人間じゃないけれど皆こういう風に見えるんだ、というのはすごく思います。
「すっぱい葡萄」というのはイソップ童話のお話です。
キツネが高いところにある葡萄を採ろうとするのですが届かず、「あれはすっぱい葡萄だったんだ」と言って自分をなぐさめる、という話です。
「精神科医が悪いんだ」「益田が悪いんだ」そういう風に思い込んでいる人はたくさんいますし、一定数いるのは仕方ない、それが人間というものの本性であって、人間社会のある種の避け難い現実だと最近思えるようになりました。
なぜ精神科医が患者さんの話に引きずられないのか、ということですが、このような色々な知識がついて受け入れているということです。
過去のドクターが残してくれた知識を僕らは借りて、臨床しているんだなと思います。
精神医学
2022.5.27